第2期: 中東戦争とベトナム戦争
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「ウ・タント」の記事における「第2期: 中東戦争とベトナム戦争」の解説
六日戦争の後、(タントは)自分が国際的な不作為のための都合の良いスケープゴートになることを許容し、できる限りの仏教徒的な無心の境地で、この受け入れがたい役割を受け入れた。 ――ウォルター・ドーン(英語版)、2007年 1966年、タントは2期目に立候補しないことを表明したが、安保理がタントを「神聖な役職」(glorified clerk)にしないと約束したため、任命を受け入れた。1966年12月2日、安保理の全会一致の勧告に基づき、総会は1971年12月31日までの任期でタントを再任した。2期目の任期中、タントはアジア・アフリカの数十か国の国連加盟を監督し、南アフリカのアパルトヘイトに断固として反対した。また、国連開発計画、国連大学、国連貿易開発会議、国連訓練調査研究所(英語版)(UNITAR)、国連環境計画など、開発・環境に関する国連の機関・基金・プログラムの多くを設立した。2期目の在任中には、アラブ諸国とイスラエルとの間の第三次中東戦争(六日戦争)、プラハの春とそれに続くチェコスロバキアへのソ連の侵攻、バングラデシュ誕生のきっかけとなった1971年のバングラデシュ独立戦争などが発生した。 タントは、1967年にエジプト大統領ガマール・アブドゥル=ナーセルの要請を受けて、シナイ半島からの国連緊急軍(UNEF)の撤退に同意した。これは、アメリカやイスラエルからの批判を受けた。エジプト政府がシナイ半島とガザ地区でのUNEFの駐留を打ち切ることを決定し、一刻も早く撤収するように要請したことを、 エジプトの国連大使はタントに伝え、タントはこれに応じる義務があった。国連はその後、「イスラエルが自国の領土内でのUNEFの受け入れを拒否したため、部隊は国境のエジプト側にのみ展開されなければならず、その機能はホスト国であるエジプトの同意に完全に依存していた。同意が取り消されてしまえば、その活動を維持することはできなかった」と述べた。タントは、最後の和平努力として、カイロに飛んでナーセルにイスラエルと戦争をしないように説得しようとした。 イスラエルでは、タントが外交手続きや広範な協議を経ずにUNEFを突然一方的に撤退させたことは、1957年にイスラエルが当時シナイとガザから撤退したことを根拠にしてイスラエルに与えられた国連の保証と約束に反しているとみなされ、その後、イスラエルの重要な国益を国連の手に委ねることを拒否するようになった。 1967年11月にキプロス危機が再燃したが、トルコの軍事介入は、主にアメリカの反対を受けて回避された。アメリカを代表してサイラス・バンス(英語版)が、事務総長を代表してホセ・ロルツ=ベネット(スペイン語版)が交渉を行い、和解に至った。和解の一環として、1968年6月、事務総長の仲介により共同体間協議が開始された。会談は泥沼化したが、タントは特別代表B・F・オソリオ=タファルの支援の下、再開のための方式を提案し、タントが退任した後の1972年に再開された。 かつて、タントとアメリカ政府の関係は良好だったが、ルンビニ釈尊生誕地聖域計画を進めるなど敬虔な仏教徒で知られたタントが、仏教徒危機の原因となったベトナム戦争でのアメリカの行為を公然と批判したことで急速に悪化した。 タントは長年に渡り中華人民共和国の国連加盟を支持してきたが、1971年10月に、中国代表権問題がアルバニア決議によって解決された。タントは、中国政府に代表団の速やかな派遣を求めるメッセージを送った。
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