第2のKKK
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 06:15 UTC 版)
「クー・クラックス・クラン」の記事における「第2のKKK」の解説
第一次世界大戦の勃発はアメリカ国内にナショナリズムの高揚をもたらすと同時に、ドイツ・トルコ・スラブ・ユダヤなどの移民と移民を祖先とするエスニック集団に対する排外主義を高めた。 1915年のアトランタで「神のお告げ」を聞いた白人の伝道師ウィリアム・ジョセフ・シモンズ (William Joseph Simmons) により「第2のKKK」が誕生する。アメリカの第一次世界大戦への参戦と同時にKKKは反ドイツ主義を前面に出し、スパイを摘発する情報組織として活動した。敵国出身の移民から「アメリカ人」を守る愛国者団体であることを強調したKKKは、仮想の危機で人々を煽って会員を増やしていく。 戦争を経て5000人規模の組織となった第2のKKKは、アメリカ南部のノスタルジア、愛国心、騎士道、倫理観を守ることに焦点を当てた。第2のKKKは「黒人を躾ける」とした以前のKKK以上に強硬的な過激派として活動し、その思想も従来の黒人差別のみならず有色人種全体の排撃を主張した。人種主義に加えて民族主義や宗教色も強まり、セム人種ユダヤ系やムスリムも攻撃の対象としたKKKは白人貧困層の絶大な支持を集め、幾つかの州では少なからぬ政治的影響力を持つに至った。他にカトリック教徒や共産主義者も攻撃対象とされた。1923年にはオクラホマ州だけで2,500件以上の暴行事件を起しており、放火や殺人が日常的に行われた。暴力行為も凄惨の限りを尽くし、両手を攻撃、縄で縛って列車に轢かせる、焼印を押すなど残虐さを極めた。 こうした動きに乗る形で伝統的にKKKの勢威が強かった南部の州のみならず中西部のテネシー州やオレゴン州、それにオクラホマ州ではKKKの構成員もしくはKKKに対して好意的な政治家らが州政府を支配するなど合法的な進出を果たし、インディアナ州ではKKKの構成員エドワード・L・ジャクソン (Edward L. Jackson) が州知事にまでなっている。一方ではこの当時影響力を有していたKKKを自己の選挙に利用するために擦り寄る者もおり、後の大統領ハリー・トルーマンもそのためにこの当時KKKに加入していた(しかし、後に彼は、アフリカ系アメリカ人公民権運動をアメリカ大統領として初めて支持する大統領となる)。この当時(1925年頃)が KKK の絶頂期であり(英語版のWikipediaによれば構成員は600万以上)、1928年には構成員数万人を動員してワシントンD.C.でデモ行進を行った。このデモ行進が皮肉にもKKKが行った最後の大規模な行動となる。 KKKの拡大に気を良くしたのか、アラバマ州などで一部の構成員がKKKが控えていた過激な活動を再開する。離婚した女性に制裁を加えたり、人種の枠を超えて行動していた白人や黒人にリンチを加えたり、あまつさえ売春宿など「倫理的ではない」建物を襲撃するに及んで、州の保守エリート層から手痛い反撃を食らってしまう。この反撃の結果、アラバマ州におけるKKKの構成員数は1930年には30,000人程度まで低下する。今までKKKを支持、もしくは容認していたアメリカの保守層もこれらの事件を機にKKKに対して距離を置くようになる。そして、当時のKKK指導者が強姦と殺人で有罪判決を受けたことが決定打となり、「第2のKKK」は一気に崩壊した。 年会員数19204,000,000 19245,000,000 193030,000 19702,000 20003,000 20068,000
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