第1次若槻内閣とは? わかりやすく解説

第1次若槻内閣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 14:58 UTC 版)

若槻禮次郎」の記事における「第1次若槻内閣」の解説

「第1次若槻内閣」も参照 加藤高明首相在職中死去したため、憲政会総裁として内相兼任し組閣する。この第1次内閣時期には左派政党一種社会主義的な「無産政党」が数多く結成された。 大正15年1926年12月25日大正天皇崩御しその日のうちに昭和改元された。明けて昭和2年1927年1月少数与党臨んだ第52回帝国議会冒頭で、おりからの「朴烈事件」と「松島遊郭事件に関して野党若槻内閣弾劾上奏案提出した若槻立憲政友会総裁田中義一政友本党総裁床次竹二郎待合招いて、「新帝践祚のおり、予算案だけはなんとしても成立させたいが、上奏案出ている限りどうしようもない引っ込めてくれさえすれば、こちらとしてもいろいろ考えるから」と持ちかけた。野党はこの妥協承諾、「予算成立暁には政府に於いて深甚なる考慮をなすべし」という語句含んだ文書にして3人で署名した。「深甚なる考慮」は内閣退陣暗示し予算案成立引き換え若槻内閣退陣し、憲政の常道に基づき野党政友会組閣の大命を受けるよう取り計らうことを意味する。これで若槻議会乗り切ったが、予算通って一向に総辞職気配見せなかったことから、野党合意文書公開、「若槻嘘つき総理である」と攻撃したこのため謹厳実直能吏のはずの若槻禮次郎は「ウソツキ次郎」と呼ばれる羽目になった。 また帝国議会終盤3月14日衆議院予算委員会大蔵大臣片岡直温野党執拗な追及対し次官から差し入れられ書付に基づき「現に今日正午頃に於て渡辺銀行到頭破綻致しました」と発言する実際に東京渡辺銀行金策にすでに成功していたが、この発言預金者が殺到し休業追い込まれてしまう。これにより昭和金融恐慌勃発した大戦景気のあと不景気に悩まされていた銀行成金たちは、ここで一気倒産憂き目に会うこととなる。特に台湾銀行成金企業鈴木商店と深い結びつき持っていたが、台湾銀行債権回収不能に陥り、休業する同時に鈴木商店倒産し、これは恐慌象徴的事件ともいえる。台湾銀行回収不能債権のうち8割近く鈴木商店のものだったという。 若槻内閣日銀特融実施させて経済的混乱収拾を図るために、台湾銀行救済緊急勅令案の発布諮るが、枢密院は、本来帝国議会救済法案可決して対応すべきところ、勅令による手続き憲法違反であるとして否決してしまう。政策実行不能考えた若槻4月20日内閣総辞職し、政友会田中義一組閣の大命が下ることとなる。

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