第1次藤田監督時代
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「読売ジャイアンツ」の記事における「第1次藤田監督時代」の解説
1981年 藤田元司が監督に就任、また、前年に現役引退した王貞治が助監督に就任。藤田元司、王貞治、牧野茂(ヘッドコーチ)による「トロイカ体制」が誕生。この年20勝の江川卓、18勝の西本聖、11勝の定岡正二、12勝の加藤初ら先発4本柱を形成し4年ぶりのリーグ優勝。日本シリーズでは、巨人と同じく後楽園をフランチャイズにする日本ハムファイターズと対戦。4勝2敗で8年ぶりの日本一を達成。江川が史上5人目の投手5冠王(最優秀防御率、最多勝、最高勝率、最多奪三振、最多完封)、西本は沢村賞、角三男が最優秀救援投手を獲得するなど、投手タイトル独占を達成、藤田監督の投手中心の守りの野球の成果が十分に発揮された。打者ではルーキーの原辰徳が新人王を獲得、篠塚利夫が3割5分7厘の高打率をマークして阪神の藤田平と首位打者争いをするなど若手の台頭が目立った。 1982年 10月まで中日との優勝争いを繰り広げるも、大事な試合で江川が打たれるなどして優勝した中日と0.5ゲーム差の2位となる。また松本匡史が初の盗塁王となる。 1983年 松本匡史が2年連続盗塁王(このときの盗塁76はセ・リーグ記録)に輝き、原辰徳が打点王(103打点)、2年目の槙原寛己が新人王を獲得するなどしてリーグ優勝するが、日本シリーズでは西武ライオンズと対戦、3勝4敗で敗れる。 この時期投手陣の中心となったのは江川卓、西本聖、定岡正二である。西本は高卒ドラフト外で入団したものの、持ち前の反骨心で同年齢の定岡、大学から米留学経て入団した江川と肩を並べるまでに成長した。藤田の監督在任時の成績は、江川55勝(20-19-16)、西本48勝(18-15-15)、定岡33勝(11-15-7)の成績を残している。
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