第1次証言聴取
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2016年11月15日、功績確認委員会に出席した李大鎔の証言聴取を行った。逃走した沈鎰を目撃した件について李大鎔は、5番国道までの距離は遠くなく、雨もすでに止んでいたので肉眼で十分観測できたとし、また午前10時以降沈鎰を見なかったと証言した。功績確認委員会は、李大鎔が午後の玉山浦戦闘の参加も6月26日午前の昭陽江戦闘の活躍を目撃してなく、また開戦初期に沈鎰を目撃した時間は午前10時の短い時間に限定され、他の行跡については全て伝聞であったことを把握した。 李大鎔は、砲1門を放棄して砲兵連絡将校に左遷されたのは第7連隊と第16砲兵大隊の全員が知っていた話だと明らかにした。死亡した話は安テソク少尉から、沈鎰の親が2度連隊本部を訪問したのは連隊長含む他人から聞いた話だと述べた。 功績確認委員会は、1951年1月と5月に親が連隊本部を訪問した件について、中国軍と交戦中であったときに部隊の指揮所に民間人が訪問することは可能かと質問した。これに対して李大鎔は、沈鎰の親に会ったことはなく訪問した話は伝聞だと答えた。 1キロ以上離れていた距離で沈鎰を目撃するのは可能かと質問した。これに対して沈鎰を見たと再度強調した。また沈鎰の行動を戦術的措置としてみなければならないと主張すると、李大鎔は、逃走は事実であり当時を知る人はみんな知っていたと答えた。 シルバースター推薦状と太極武功勲章公的文書の内容を知っているか質問すると、李大鎔は知らなかったと答え、誰がまんまと捏造したかわからないと反応した。 李大鎔の証言に不正確な内容が一部含まれており、母が連隊長を訪ね「共匪討伐をしていた警察の次男は病気にかかり」と話したと言われているが、警察庁の記録を調べた結果、弟の沈民が警察に入ったのは1952年11月だった。
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