第1次羽田事件での死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 04:08 UTC 版)
1967年10月8日の第1次羽田事件(佐藤栄作首相の南ベトナム訪問阻止運動)に参加。羽田空港への突入を図る学生らと機動隊が海老取川に架かる弁天橋で激しい攻防を展開し、機動隊から奪った警備車兼放水車を暴走させるなど学生が激しく機動隊を攻撃する中、警備車が通った後に倒れているのを発見された。すぐに機動隊員に救助されたが、死亡が確認された(享年18)。 山崎の訃報を聞いた父親は「バカなやつだ」と言って自宅に閉じ籠もり、母親も「東京まで行って確かめるまで何も申せません」と語って涙をこらえていた。 1967年10月17日、日比谷野外音楽堂において、虐殺抗議・山崎博昭君追悼中央葬が開催され、井上清が弔辞を、樺俊雄が詩を読んだ。また、10月23日には日中友好協会(正統)ほか主催の愛国学生山崎博昭追悼集会が開催された。 遺骨は大阪府交野市の平和台霊園に埋葬されている。
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