第1次航海とは? わかりやすく解説

第1次航海(1405年-1407年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 14:35 UTC 版)

鄭和」の記事における「第1次航海(1405年-1407年)」の解説

永楽3年6月15日1405年7月11日)、34歳鄭和永楽帝より諸国への航海南海船団指揮をとることを命じられ、その年の年末に第1次航海へと出発した。『明史によればその航海下西洋西洋下り)と呼ばれる船団は、全長42丈(約131m)余の大船62隻、乗組員総数27800名余りからなる大艦隊だった。 蘇州府太倉州から出発した船団泉州府→シュリー・ヴィナーヤ(英語版)(チャンパ現在のビンディン省クイニョン)→スラバヤマジャパヒト王国現在の東ジャワ州)→パレンバンマラッカアル英語版)(現在の北スマトラ州)→サムドラ・パサイ王国(サマトラ、現在のアチェ州北部)→セイロンという航路をたどり、永楽5年1407年初めにコーリコードへと到達したマジャパヒト滞在中、宮廷東王宮と西王宮に別れており鄭和たちは内戦(パルグルグ戦争英語版))に巻き込まれた。東王宮に滞在していた鄭和部下西王宮の襲撃時に死亡したため、鄭和抗議し西王宮に賠償金の支払い約束させた。マラッカ海峡に近いスマトラ島パレンバン寄港中には同地における華僑間の勢力争い巻き込まれた。当時パレンバンには梁道明(中国語版)およびその後継者である施進卿英語版)と陳祖義中国語版)の2派の有力華僑存在し抗争続けていた。施進卿派は鄭和協力関係を結び、陳祖義牽制したが、これに対し陳祖義鄭和艦隊攻撃したものの大敗し捕らえられ陳祖義南京まで連行され審議の上斬首された。一方施進卿朝貢約して明か官位与えられパレンバンは明の影響下に置かれることとなった。 この航海により、それまで明と交流がなかった東南アジア諸国続々と明へと朝貢やってくるようになった中でも朝貢積極的だったのがパラメスワラ(英語版治下建国間もないマラッカ王国であったマラッカこの後鄭和艦隊やってくるたびに朝貢行い、北のアユタヤ王朝南進阻んだ。こうしてマラッカ鄭和影響力背景に力を蓄え明か艦隊派遣されなくなる頃には地域強国として自立果たし東西貿易中継港として発展した

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