第1次航海(1405年-1407年)
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「鄭和」の記事における「第1次航海(1405年-1407年)」の解説
永楽3年6月15日(1405年7月11日)、34歳の鄭和は永楽帝より諸国への航海と南海船団の指揮をとることを命じられ、その年の年末に第1次航海へと出発した。『明史』によればその航海は下西洋(西洋下り)と呼ばれる。船団は、全長42丈(約131m)余の大船62隻、乗組員総数2万7800名余りからなる大艦隊だった。 蘇州府太倉州から出発した船団は泉州府→シュリー・ヴィナーヤ(英語版)(チャンパ、現在のビンディン省クイニョン)→スラバヤ(マジャパヒト王国、現在の東ジャワ州)→パレンバン→マラッカ→アル(英語版)(現在の北スマトラ州)→サムドラ・パサイ王国(サマトラ、現在のアチェ州北部)→セイロンという航路をたどり、永楽5年(1407年)初めにコーリコードへと到達した。 マジャパヒトに滞在中、宮廷は東王宮と西王宮に別れており鄭和たちは内戦(パルグルグ戦争(英語版))に巻き込まれた。東王宮に滞在していた鄭和の部下が西王宮の襲撃時に死亡したため、鄭和が抗議し、西王宮に賠償金の支払いを約束させた。マラッカ海峡に近いスマトラ島のパレンバン寄港中には、同地における華僑間の勢力争いに巻き込まれた。当時パレンバンには梁道明(中国語版)およびその後継者である施進卿(英語版)と陳祖義(中国語版)の2派の有力華僑が存在し、抗争を続けていた。施進卿派は鄭和と協力関係を結び、陳祖義を牽制したが、これに対し陳祖義は鄭和艦隊を攻撃したものの大敗し、捕らえられた陳祖義は南京まで連行され、審議の上斬首された。一方、施進卿は朝貢を約して明から官位を与えられ、パレンバンは明の影響下に置かれることとなった。 この航海により、それまで明と交流がなかった東南アジア諸国が続々と明へと朝貢へやってくるようになった。中でも朝貢に積極的だったのがパラメスワラ(英語版)治下で建国間もないマラッカ王国であった。マラッカはこの後も鄭和の艦隊がやってくるたびに朝貢を行い、北のアユタヤ王朝の南進を阻んだ。こうしてマラッカは鄭和の影響力を背景に力を蓄え、明から艦隊が派遣されなくなる頃には地域強国として自立を果たし、東西貿易の中継港として発展した。
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