第一のボスポラス砲撃
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「トリー・スヴャチーチェリャ (戦艦)」の記事における「第一のボスポラス砲撃」の解説
詳細は「ボスポラス砲撃 (1915年3月)」を参照 連合国軍によるボスポラス海峡の封鎖突破計画に呼応して、黒海艦隊はボスポラス海峡の黒海側拠点に砲撃を加えることになった。3月14日から3月18日にかけて、艦隊司令官エベルガールト中将の将官旗を掲げた戦列艦エフスターフィイを先頭に、イオアン・ズラトウースト、パンテレイモン、トリー・スヴャチーチェリャ、ロスチスラフ、巡洋艦カグール、パーミャチ・メルクーリヤ、水上機を搭載したアルマース、5 機の水上機を搭載したニコライ1世、艦隊水雷艇グネーヴヌイ、プロンジーテリヌイ、デールスキイ、ジュートキイ、ジヴーチイ、レイテナーント・プーシチン、ザヴィードヌイ、ザヴェートヌイ、ズヴォーンキイ、ゾールキイ、機雷敷設艦クセーニヤ、アレクセイ、6 隻の掃海艦からなる連合艦隊がボスポラス方面へ遠征を行った。 3月15日、トリー・スヴャチーチェリャとロスチスラフを中核とする砲撃グループが分派され、海峡のオスマン帝国堡塁に対する砲撃を実施した。その間、ボスポラス海峡から黒海へ抜けようとしていた敵蒸気船に対しトリー・スヴャチーチェリャは砲撃を加えてこれを撃沈、護衛の駆逐艦サムスンとガイレティ・ヴァタニイェをロスチスラフが撃退した。 10時30分、トリー・スヴャチーチェリャはエルマス岬地区の砲台へ砲撃を開始した。そのあとにはロスチスラフが続き、同様にして堡塁への砲撃を行った。その後、両艦はアナドルフェネリの砲台を砲撃した。砲撃は、11時50分まで続けられた。砲台の最初の一群に対しては、305 mm砲から6 発、254 mm砲から10 発、152 mm砲から50 発の榴弾が発射された。第二群に対しては、305 mm砲弾が9 発、254 mm砲弾が6 発、消費された。 エベルガールトは「艦隊初のボスポラス砲撃という歴史的な日を祝福する」という信号を発し、作戦の成功を祝った。しかし、翌日に実施された同様の作戦は芳しい戦果を挙げることができず、エベルガールト提督は優柔不断を批判されることになった。 失敗の原因は、水上偵察機の誤報と、海上に立ち籠める濃い霧であった。前日と同様の砲撃グループがボスポラスに近づくにつれて、次第に海上の靄は辺り一面に広がり、やがて濃い霧へと変わって周囲を包み込んでしまった。戦列艦が海峡から70 鏈の海上に達したとき、砲台への砲撃実施はひとえに不可能であることが明らかになった。分遣隊指揮官はこのことを無線で提督へ知らせ、引き返した。10時50分、分遣隊は連合艦隊と合流した。 ほぼ同時刻、ニコライ1世から発進していた水上機が帰還し、ゲーベン発見を知らせた。艦隊司令官は臨戦態勢を命じ、掃海艦はセヴァストーポリへ引き返した。実際、11時20分前には海峡の奥で無数の煙が確認された。ニコライ1世は水上機を回収し、無線にてゲーベンならびにブレスラウをはじめとする全トルコ艦隊が停泊しているということを知らせた。艦隊はボスポラス付近での巡航を夕刻まで続け、その後公海上へ引き返した。 ところが、実際には敵主力艦に関する情報はまったくの誤報であった。なぜなら、海峡沿岸には2 隻のムアヴェネティ・ミッリイェ級駆逐艦がいただけであったからである。 その後、3月20日から3月23日にかけては、連合艦隊と2 隻の巡洋艦は第1・4・5水雷小艦隊の艦隊水雷艇を伴って改めてボスポラス海峡へ遠征し、巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリムおよび軽巡洋艦ミディッリ迎撃を試みた。しかしながら、砲撃と雷撃は尽く失敗に終わった。
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