笠松競馬所属時代
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1993年に岐阜県笠松競馬場の鷲見昌勇厩舎に入厩。7月28日に初戦(ダート800m)を迎え、6馬身差で圧勝。その後、1勝を挟み、秋風ジュニア(8月25日:ダート1400m)でマルカショウグンの2着に敗れた。しかし次走ジュニアクラウン(9月29日:ダート1400m)でマルカショウグンに雪辱した。その後も連勝を重ね、12月29日のジュニアグランプリ(ダート1600m)まで白星を重ね、地方通算7戦6勝の成績を挙げ、中央入りした。
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笠松競馬所属時代
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「フェートノーザン」の記事における「笠松競馬所属時代」の解説
フェートノーザンが笠松に移籍したのは1987年夏頃で、当時の笠松競馬には嘗てフェートノーザンと同じく中央競馬に所属し地方の金沢競馬を経て同時期に笠松に移籍したワカオライデンと芦毛の怪物オグリキャップがいた。移籍時点では患部が化膿して歩くのも困難だったが関係者の治療の甲斐あって半年後には走れるまでに回復した。転入初戦は秋まで伸びたが移籍後2連勝を飾り、鞍上に安藤勝己を迎えて名古屋大賞典に出走、ワカオライデン相手に競り掛けていく積極的なレースを見せたが、同馬の前に3着と敗れた。暮れの東海ゴールドカップでは7.5キロの斤量差に助けられた部分もあり今度はワカオライデンに勝っている。移籍1年目は10月以降のみで4戦3勝としたが、オグリキャップはこの翌年に中央競馬へと移籍した為、対決する事はなかった。 明けて6歳となり、実力の違いから着実に勝ち星を重ねたが、先頭に立つと内にモタれるという悪癖があり、取りこぼしたレースも2度あったものの、前年の東海GC制覇の余勢を駆って連勝スタート、春のローレル制覇まで3連勝し、春は全勝で終えた。転機となったのは、10月のオパール特別。このレースから道中で抑える作戦がとられ、直線で爆発的な瞬発力をみせるようになった。尚、休養中の7月にワカオライデンが先に引退した為、全盛期となったフェートノーザンとの対決はなかった。脚質が変わったことでレースぶりが安定し、これ以降のフェートノーザンは、まさに無敵を誇った。東海菊花賞を制して臨んだ第1回全日本サラブレッドカップでは、大井の名馬イナリワンを一蹴。続く東海ゴールドカップは、61キロの斤量を背負いながら連覇を飾った。イナリワンは年末の東京大賞典を最後に翌年中央競馬へと移籍し、前年に笠松から中央競馬に移籍していたオグリキャップや、中央競馬で前年の菊花賞を制したスーパークリークと共に「平成3強」と呼ばれる活躍を見せ年度代表馬に選出されている。 年が明け7歳初戦の名古屋大賞典も61キロをものともせず快勝。東海地区の主要競走を総なめにして、大井競馬場の帝王賞に遠征することとなる。この時のフェートノーザンは、蹄の状態が良く、比較的強い調教が可能で、調子は過去最高と言えるほどだった。道中は後方につけ、4コーナーで好位に取り付けると、直線では早めに先頭に立ち、2着に2馬身半差をつけ危なげなく勝利を飾り、日本のダート界の頂点に立った。 レース後、新冠町の優駿スタリオンステーションでの種牡馬入りが早くも決定。以降は、札幌の第1回ブリーダーズゴールドカップ、笠松の全日本サラブレッドカップ、さらに状態次第では翌年の川崎の川崎記念と、全国の交流重賞を使って引退するというプランが発表された。帝王賞の次走は、全日本サラブレッドカップの優先出走権がかかったローレル争覇で68キロという酷量を背負いながら勝利したが連戦の疲れが出たのかレース後夏負けにかかり調子を崩した。ブリーダーズゴールドカップの1か月前に札幌競馬場に入厩し、安藤も一緒に付き添うという熱の入れようだったが一向に状態は回復せず本番に不安を残す。レースでも鞍上の安藤が負けを覚悟するほど行きっぷりが悪かったが、ゴール寸前で地元の雄ホロトウルフをクビ差だけ差し切った。 そして迎えた11月23日の全日本サラブレッドカップ、地元笠松での最終戦であり単勝支持率は9割を越えるという圧倒的な人気を集めた。例によって後方待機策をとったが、1周目の3コーナー過ぎで左前種子骨骨折を発症。安藤が下馬し、競走を中止した。当初は命に別状は無いと考えられたが、感染症を併発した事で39度を越える高熱が出るなど危険な状態となり、500キロを越える雄大な馬体が3分の2程になるまでに衰弱した。関係者の懸命な治療が続けられたがその甲斐無く、12月12日に安楽死処分が取られる事となった。
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