競馬界の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 07:18 UTC 版)
チャールズ2世の治世の1666年に「王室競走」としてのキングスプレート競走(英語版)が導入され競馬界の競争が高まると、足が速く持久力の優れた馬が好まれるようになり12ストーンの重量で4マイルを競えるかどうかが焦点になった。勝ち馬は繁殖用に引っぱりだこになり、血統改良が進んで平地競走では芽が出なくても障害競走で勝てる馬を輩出した。カラは1670年代に優勝碑を多く受け、1685年には初のスタッドブックが発行される。発行元は生産者の集うダウンロイヤル競馬場(英語版)で、競走馬の血統を宣伝しようと手がけた。また別の事情としてアイルランド刑罰法(英語版)が施行されカトリック教徒が5ポンド以下の馬の所有を禁じられたのだが、馬主の意欲を損なうことはなく、かえって安い馬専門のレースが人気を集めた。開催の宣伝合戦が新聞紙上で始まり、1750年に英語版競馬新聞Racing Calendar (英語版)に掲載された競走のうち、アイルランドで行われたのは71開催に上る。 さて障害競走の創設期、コーク県バタバント(英語版)とドネレイル(英語版)を結ぶ原野で4.5マイルレースが施行され、出走地点とゴール地点には両方の町の有名な教会の塔(スティープル)が選ばれた。地元のエドモンド・ブレーク(Edmund Blake)とコーネリアス・オキャラハン(Cornelius O'Callaghan)の競り合いは狐狩りの伝統に基づく「クロスカントリー競走」の人気に火をつけ、獲物のキツネの代わりに賞品が用意された - 初回の競走ではワイン1樽である。 最初期の障害競走では合意事項はスタートとゴールを名所前にする程度で、コース自体は騎手が自分で選んでいる。のちに原野に何本も旗を立て、旗と旗を結んで走るように決まった。原野を走るレースから、人工的に作った競馬場が各地に設けられるのは1830年代であり、形式は平地競走のコースに似せてあった。また競走馬の年齢に応じてウエイトのアローアンスが規定され、今日のナショナルハント競走(英語版)の下地が整っていく。 ルールをつかさどる組織の名称は当初の〈競馬人協会〉Sportsmen Society から〈ジョッキークラブ〉(1755年)に、やがて現在の「アイリッシュ・ターフクラブ(英語版)」に改まるのは1784年である。ターフクラブは係争が起こると別個の組織ではありながらイギリスジョッキークラブに持ち込んでいる。ナショナルハントレースの裁定組織は「アイリッシュ・ナショナル・ハント障害競走委員会」(INHSC:Irish National Hunt Steeplechase Committee)といい、ナショナルハント競走の施行で公正さを確実にするため、ターフクラブを上部組織として設けられた経緯がある。 砂浜の海岸線を走るレイタウン(Laytown)の競走の最も古い記録は1868年にさかのぼる。当時、干潮時の砂が締まった水打ちぎわで開く競走が一般的だった。その翌年、ボーリーブリット競馬場(英語版)の初回競馬フェスティバルが施行され、観客動員は4万人だったという。 競走馬の生産は、19世紀にナポレオン戦争(1803年春から1815年晩秋)のあおりを受け、下り坂を迎える。不況は繁殖への投資を渋らせ、有力馬は賞金のより豊かなイギリス本土の競走に出されがちだった。しかしながらアイルランドで鉄道網の発展に連れ、例えばカラ駅の新設(1846年)、サーレス駅(ティペラリー県)–カラ・ジャンクション駅間が延伸(1848年)、新しい場所に競馬場がつぎつぎ建設される。レース目当ての乗客数が見込めるようになると開催のスポンサーを買って出たり、1846年10月16日木曜日にはキングスブリッジ駅(ダブリン)から競馬場最寄りのカラ駅まで特別列車を運行したり復路に3等車を連結したり、出場馬の鉄道馬運運賃を無料にするなど、鉄道会社の営業努力でアイルランドの競馬界に追い風が吹き始めた。
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