鉄道網の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/11 09:09 UTC 版)
「ブラウンシュヴァイク公国邦有鉄道」の記事における「鉄道網の発展」の解説
1843年7月10日に東部支線のヴォルフェンビュッテル-オシャースレーベン(ドイツ語版)間がイェルクスハイム(ドイツ語版)およびシェーニンゲン(ドイツ語版)経由で開通し、プロイセンのマクデブルク-ハルバーシュタット鉄道(ドイツ語版)と接続してベルリンやライプツィヒまで連絡するとともに、ブラウンシュヴァイクの飛地であるブランケンブルク(ドイツ語版)へも通じた。 西にブラウンシュヴァイク-パイネ間は1844年に5月19日に開通し、あまり鉄道に気乗りのしなかったハノーファー王エルンスト・アウグストとの合意にようやく達して王立ハノーファー邦有鉄道とも接続した。 ベルスム(ドイツ語版)から分岐してハノーファー南部鉄道のクライエンゼンまでを結ぶブラウンシュヴァイク南線(ドイツ語版)は1853年に着工し1856年に開通した。 ヘルムシュテットの褐炭地区へは、ヴォルフェンビュッテル-オッシャスレーベン線からイェルクスハイムで北へ分岐して到達した。 フィーネンブルクからゴスラーへの支線(ドイツ語版)も1866年に開通した。この路線は完全にハノーファー領内を走っているため、ハノーファー邦有鉄道によって建設されたが、当初はブラウンシュヴァイク邦有鉄道により運営された。 クライエンゼンから南西へホルツミンデンおよびヘクスターへ、そして王立ヴェストファーレン鉄道(ドイツ語版)へ接続する路線は1865年10月に開通し、アルテンベケン(ドイツ語版)を経由してルール地方の工業地帯へと直結するルートが確立された。 1868年のイェルクスハイム-ベルスム線の完成により、マクデブルクとルール地方をハノーファーおよびブラウンシュヴァイクを経由せずに結ぶ長距離路線ができた。これはプロイセンの利害によるものであった。東西方向の主要交通路は1871年に開通したベルリン-レールテ線によってさらに置き換えられている。
※この「鉄道網の発展」の解説は、「ブラウンシュヴァイク公国邦有鉄道」の解説の一部です。
「鉄道網の発展」を含む「ブラウンシュヴァイク公国邦有鉄道」の記事については、「ブラウンシュヴァイク公国邦有鉄道」の概要を参照ください。
- 鉄道網の発展のページへのリンク