鉄道網発展時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 03:52 UTC 版)
この時期、客車は2軸車が主力だが、当初の9両で止まっていたボギー車も、東海道線全通の1889年にイギリスから合計56両が輸入され、同年に鉄道作業局新橋工場で同形の客車の製造が18両行われた。また新橋・神戸工場では寸法が異なるボギー客車も製造、日本鉄道にも供給した。1897年(明治30年)ごろまでは、この両工場のほかに製造能力を持つのは北海道炭礦鉄道の手宮工場に留まっていたが、のちには各大私鉄の工場および独立の民間車両会社での製造が行われるようになった。官鉄が寝台車を、九州鉄道がアメリカから「或る列車」の通称で知られた豪華客車を輸入したなどほかは、おおむね国内で自給できるようになった。もっとも、国内で自給といっても台車の輪軸や台枠用鋼材など重要部材についてはこの時点では未だ国産化に至っておらず、台車や車体の設計についても輸入品の模倣に終始する状況であった。 客車のブレーキ装置は、従来全て非貫通の手ブレーキをそのための緩急車に設けていたが、1887年に真空ブレーキがイギリスから輸入されて一部で試用された。 日本初の食堂車は、1899年5月25日に山陽鉄道が運行した。また1900年に同じく山陽鉄道が神戸駅 - 三田尻駅(現・防府)間急行に1等寝台車を連結した。以後、官設鉄道や日本鉄道が追随し、特殊サービスのための客車も広がっていった。 設備に関しても、前述の山陽鉄道では明治31年(1898年)度に電灯照明を開始し、電力確保のために蓄電池を搭載した蓄電池車、翌年に発電機を搭載した発電車を購入し使用していたが明治34年(1901年)までに蓄電池車に統一し、鉄道国有化後も車軸発電機式と一時並行して使っていた時期もあったが、最終的に大正3-4年(1914-1915年)に車軸発電機に統一された。また、ボギー客車の広まりについても、明治40年時点でも国有路線に限っても大半の客車は2軸車(客車総数4983両中、2軸車4026両。)だったが、明治43年(1910年)に鉄道院は2軸車新造を打ち切り今後はボギー車にすることにした(小規模な私鉄向けでは大正以後も2軸車はメーカーごとのレディメイドで製造を続けられ、中には神中鉄道の2軸客車(後の常総筑波鉄道ハフ74)のように大正15年に製造されたものもあった。)。 なおこの時期までの客車は、官設鉄道のものも私有鉄道のものも全て、1928年の称号規程の改正以後は雑形と称され、2軸(4輪)車、2軸(4輪)ボギー車、3軸(6輪)ボギー車など、大まかな構造の相違ごとに与える番号帯に一定の区分を行った上で、1 - 9999の番号が付されることになった。
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