砺波郡の支配に関する研究史
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「田屋川原の戦い」の記事における「砺波郡の支配に関する研究史」の解説
従来の「田屋川原の戦い」をめぐる議論の中で、最も研究者の注目を引き議論が分かれてきたのが「闘静記」の「山田川のことなるか西は安養寺領と定ける、川東は瑞泉寺領也」という一文である。そもそも、戦後日本の歴史学の中では階級闘争史観に基づいて一向一揆の領主化運動を研究する流れがあり、その最も早期の事例として「田屋川原の戦い」が注目されてきた背景があった。 「闘静記」は「田屋川原の戦い」を経て「利波郡は瑞泉寺領と成」ったとするが、この記述の意味するところについて研究者の見解は分かれている。当初、新行紀一らはこの記述をそのまま受け入れ、「田屋川原の戦い」によって砺波郡にも加賀一向一揆のような門徒領国制が確立したと論じた。 これに対し、新田二郎は「闘静記」以外の同時期の砺波郡に関わる史料を精査し、 実証的に新行説を批判した。まず、新田は文明18年(1486年)の書状などを挙げて文明18年以降も砺波郡内では荘園領主の代官が一定の得分を持つ記録が残るが、逆に一向宗勢力が荘園の動向に関わったことを伝える史料がほとんどないことを指摘した。また、「官知論」の「長享二年加州土賊蜂起」に関わる記述に越中の国人が「放生津・吉江・運沼」に集結したとあることに注目し、国人が砺波郡内の吉江(石黒家の拠点である福光の東に隣接する地域)・蓮沼に集結したことは長享2年に至っても石黒家の旧領が国人側の有力拠点と位置付けられていたことを示すものであると述べた。また、新田は永正3(1506)年の越後勢との戦いこそ研波郡全体を巻き込む最初の一向一揆であるとしつつ、この戦いの後でさえも国人の勢力が研波郡に残存していたことを示す史料があることを紹介した。その上で、 砺波郡内においては長く武士国人領主勢力と一向宗坊主の抗争が続き、加賀国のような一向宗による一円支配は成立しなかったと論じた。 久保尚文は新田二郎の批判を受けて 「闘静記」の記述を再考察し、新田氏の「闘静記」批判を継承しつつ、「闘静記」には部分的に史実と見なしうる箇所も存在するという、従米の研究を折衷する立場の論考を行った。久保は先述したように「闘静記」の一部を後世の加筆と見なすことでそれ以外の箇所は史実とみなしうると論じる一方、「田屋川原の戦いの結果、砺波郡は一向宗の支配下に入った」 という点については新田説を支持して史実に反するものと見なす。また、これに関連する史料として 「反故裏書」の「越中国坊主衆は土山坊の与力とするが、河上の分のみは瑞泉寺の与力とする」 という記述を紹介し、本来は砺波郡内の与力を土山(安養寺)と瑞泉寺で分割していたのが、後代になって両寺が砺波郡を分割支配していたというニュアンスに変化していったのではないかと推測する。そして、越中が加賀のような本願寺領国化の道に進まなかったのは、本願寺が当時の幕府体制下に組み込まれた結果であるとする。 金龍静は新行紀一の挙げた東大寺文書の記述について、そもそもこの史料では何故「地下人一向宗」とわざわざ両者を分けて記述しているのか(同時代の荘園での未進・逃散記録では一向宗徒は地下人の中に含まれる)、という点に注目した。この点について、金龍静は文明年間の加賀額田荘得丸名の相論において、 額田惣荘側が「仏法の当敵を責め失せる廉直の弓矢(仏法の敵を破る戦い)」であったことを理由に当時の慣習に逆らった判断をしたことを紹介し、高瀬荘における土一揆についても同様の論理が働いたのではないかと指摘する。すなわち、「高瀬荘の一揆」は「仏法の戦い」という名目の下で荘園領主側と争ったからこそ東大寺文書にも一揆の主体が「一同宗」であると記録されたのであり、やはり「高瀬荘の一揆」は一向一揆的側面を有するものであった、と論じている。 現在では、「田屋川原の戦い」後の砺波郡について久保尚文の提唱する説(「田屋川原の戦い」は実在したと考えられるが、それによって砺波郡が即座に一向宗の支配下に入ったとは考えられない)を踏襲する見解が主流である。
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