砺波平野の散居村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/20 04:46 UTC 版)
この景観が成立したのは、16世紀末から17世紀にかけてであると考えられている。砺波平野を流れる庄川は江戸時代以前にはしばしば氾濫したため、この地域に住みついた人々は平野の中でも若干周囲より高い部分を選んで家屋を建て、周囲を水田とした。このような住居と水田の配置は農業者にとっては便利であったため、前田家による田地割政策下でもこの地域の農民たちは引地、替田を行って自宅周辺に耕作地を集めようとした。 家屋が1か所に集まって集落を形成するということが無かったため、冬にはそれぞれの家屋が厳しい風雪に直接晒されることとなり、家屋の周囲にカイニョと呼ばれる屋敷森を形成してこれに対処するようになった。一般的には防風効果もあり、燃料となり、建築用材になる杉が多い。栗 ・柿・梅など実ができる樹木も植え、女の子が生まれると桐の木を植え、嫁入りに備えた。「高 (土地)を売ってもカイニョは売るな」「塩なめてもカイニョを守れ」と大切にされた。 なお、この地域の伝統的な家屋には「アズマダチ」(切妻造)や「マエナガレ」(平入り)がある。研究者として始めに注目したのは、京都帝国大学の地質学者の小川琢治である。
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