石器時代から中世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/04 17:03 UTC 版)
「エクスタータール」の記事における「石器時代から中世」の解説
紀元前6000年頃の最終氷期終了後、中央ヨーロッパ全域は原始林に覆われ、中石器時代の人類は小さな部族グループを形成して狩猟・採集生活を営んでいた。ロット、アルメナ、ブレムケ付近で発掘された石器時代の出土品は、先史時代にエクスタータールにも人が住んでいたことを示している。発掘地は、他のリッペ地域と比べて互いに離れており、小規模な入植地であったと思われる。 農耕や牧畜が始まった新石器時代に、さらなる栄養源を求めてエクスタータールに大勢の人が住むようになった。当時の原始的な木製器具では、レエティク(ドイツ語版)層の堅い土地を開墾することができず、川の堆積物で形成された平地によらざるを得なかった。山地の原始林は、10箇所ほどの開墾地を除き、手つかずのままであった。こうした先史時代の農場の詳細な状況は、今日では再現不能である。ただし、当時の入植地の高台にあった墳丘墓の場所から、その位置は推定することができる。エクスタータール町内には、25の墳墓が知られている。紀元後500年頃にザクセン人がエクスタータールを征服した。ザクセン人の言語は、20世紀にはいるまでこの地で話されていた低地ドイツ語の起源となった。 中世初期、ブレムケ近郊のハーゲンベルク山に、エクスタータールを通る街道の安全を確保するための山城、ウフォブルク城が築かれた。現在でも、かつての城砦建築をしのばせる土塁や方形の壕の遺構を見ることができる。学術的な発掘調査により、850年から920年頃と推定される陶片が発掘されている。 この頃まで農民は、効率的な農場経営法を発見できず、原始的な営農方法を続けていた。中世盛期の、鉄製の鋤、三圃式農業、水車の発明によってこうした状況に変化が訪れた。山の堅いレエティック層の土地が開墾され、わずかな森の一部が残されるだけとなった。この頃から、小さな農場を核とした小集落を主とした、現在見られるような農場構造が形成され始め、やがてジリクセン、アルメナ、ラスブルーフといった典型的な村落が成立した。 1150年頃に、現在はデーレントルプの町域に含まれるミューリングスベルクにアルト=シュテムベルク城が建設された。この城は、名前は不明のある帰属一門の所有であったが、13世紀の初めに放棄された。これを引き継いだのは、シュヴァーレンベルク伯の傍系にあたるシュテルンベルク伯家であった。この伯家は、13世紀半ばからこの城に住み、現在のバルントルプとジリクセンを除くエクスタータールに相当する地域を支配した。伯家は、1240年頃、リンダーホーフェの西にシュテルンベルク城を築いた。 シュテルンベルク伯は、領土を護るために小さな添城を持つ入植地を建設した。この集落はドライシュトラーセンシステム(3本の道路を基本骨格とする都市システム)に基づきデザインされた。バルントルプ、アルファーディッセン、ベージングフェルトの中核部では、現在でもこのシステムを見ることができる。ベージングフェルトには、北、南、中央通りの 3本の道路がある。この集落は外壁で保護されておらず、ハーゲンと呼ばれる薮によって外敵から護られていた。アルファーディッセンは、近世初期に増設された現存する城館を持つ城砦施設を有していた。 ベージングフェルトは、1252年以前の近い時期にシュテルンベルク伯によって都市として建設された。しかし、1427年から1442年までの間に都市圏を再び失い、フレッケン(町または大きな村)に格下げされた。シュテルンベルク伯からリッペ家(ドイツ語版)へ支配権が移った後、ベージングフェルトは比較的重要度の低い市場町とされたが、伯領北東の不利な地形にあったことから、それほど発展しなかった。経済的・文化的分野における発展が阻害された原因は、領土争い、シャウムブルク=リッペに借金の担保として出されたことと、後にリッペ領主家に戻されたことである。さらなる根拠は、ベージングフェルトから現在のデーレントルプに属すヒレントルプへの鐘の移設が 1442年にミンデン司教アルベルトによって許可されたことに表れている。
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