発表と嘲笑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 09:58 UTC 版)
1948年10月7日、シトロエン2CVはフランス最大のモーターショーであるパリ・サロンにおいて公に発表された。 多数のマスコミ・観客が見守る中、ブーランジェ社長によって紹介され、除幕された「ニューモデル」の2CVは、あまりにも奇妙なスタイルで、観衆をぼう然とさせ、立ち会ったフランス共和国大統領のヴァンサン・オリオールをして困惑せしめたという。しかしながら、この問題はブーランジェのメディアへのショー前公示不足が大きな原因であったとする見解もある。 この時点で、競合するルノーの750ccリアエンジンの大衆車「4CV」や、プジョーの1クラス上の1,300cc車「203」がすでにデビューしており、それら他社製の戦後型ニューモデルがごく「まとも」な自動車であっただけに、2CVの奇怪さが際だった。 居合わせたジャーナリスト達は2CVを見て「醜いアヒルの子」「乳母車」と嘲笑し、居合わせたアメリカ人ジャーナリストは「この『ブリキの缶詰』に缶切りを付けろ」と揶揄した。前衛派詩人で皮肉屋の作家ボリス・ヴィアンは2CVを「回る異状」と評した。だがしかし、大衆は2CVを支持し、シトロエン社はすぐさま数年分のバックオーダーを抱える事となった。 ピエール・ブーランジェはこの自動車の成功を確信していた。2CVがその奇矯な外見とは裏腹に、あらゆる面で合理的な裏付けを持って設計され、市場ニーズに合致した自動車であるという自信を持っていたからである。 もっとも彼は2CVの未曾有の成功を完全に見納めないうちに、1950年自ら運転するトラクシオン・アバンの事故で死亡した。 先行量産モデルは「特に2CVを必要としている」と考えられた希望者に優先販売され、日常における実際の使用条件について詳細なモニタリングが行われた。それらはフィードバックされ、技術改良と販売方針の改善に活用された。 2CVが廉価なだけでなく、維持費も低廉で扱いやすくて信頼性に富み、高い実用性と汎用性を有していることは、短期間のうちに大衆ユーザーたちに理解された。1949年の生産はスターターの必要性などの問題点があり、同年7月より始まり日産4台:876台に留まったが、翌1950年には6,196台と、月産400台のペースで量産されるようになり 1951年には生産台数は14,592台になった。以後も生産ペースは順調に増加していった。 フランス国民はこのエキセントリックな自動車の外見にも早々に慣れ、2CVは数年のうちに広く普及した。街角や田舎道に2CVが停まる姿は、フランスの日常的光景の一つとなった。 更にはヨーロッパ各国にも広範に輸出され、ことにその経済性と悪路踏破能力は各地のユーザーに歓迎された。イギリスなどにおいて現地生産も行われている。 シトロエンはその後、排気量拡大や内外装のマイナーチェンジなどを重ねて2CVをアップデートしていくとともに派生モデルを多数開発して小型車分野のラインナップを充実させた。1967年に後継モデルと思われる「ディアーヌ」を発表したが、結果として2CVはそれよりも長生きすることになった。ことに1970年代のオイルショックは、2CVの経済性という特長を際だたせることになった。 また優れた経済性と走覇能力とを併せ持つ2CVに着目した欧州の若者達は、世界旅行の手段として2CVを選び、北はノルウェー、東にモンゴルを抜けて日本、西にアラスカ、南にアフリカを走り抜けた。更には世界一周旅行に出かけて50ヶ国、8つの砂漠を走り約10万kmを走覇したコンビもあった。
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