病魔と運命の暗転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 00:28 UTC 版)
「タナキル・ルクレア」の記事における「病魔と運命の暗転」の解説
ルクレアは同世代のダンサーの中で抜きんでた存在であった。彼女の踊りは観客だけでなく、評論家にも好評を博していた。『シンフォニー・イン・C』のアダージョではルクレアの優雅さと音楽性が秀でていたため、観客は彼女以外のダンサーがこの部分を踊るのを耐えがたく感じたほどだったという。1950年代前半は、バランシン、NYCB、そしてルクレアにとって栄光の時代の幕開けかと思われた。 前途洋々だったルクレアの運命が暗転したのは、1956年のことであった。この年の秋、NYCBは2か月半にわたってヨーロッパ公演ツアーを行っていた。ツアーの日程が残り2週間となった10月28日、コペンハーゲン滞在中にルクレアは体調不良を覚えた。体の節々に起こる痛みと発熱に耐えて、彼女はその日の昼夜公演でソリストとして舞台を何とか務めあげた。 翌日になると症状は悪化していて、ルクレアは椅子から立ち上がることさえできなくなっていた。前日から起こっていた症状は、実はポリオの前兆であった。当時ポリオの予防法は確立されておらず、唯一の実用段階にある注射ワクチンだったソークは安全性を疑問視されていた。バランシンとルクレアもソークの安全性に疑問を持ち、ヨーロッパ公演ツアー出発直前に接種を見送っていた。 医師による治療でルクレアの命は何とか救われたものの、彼女のダンサーとしての命である足を救うことはできなかった。バランシンはかつて少女時代のルクレアに振り付けた『復活』のことを思い出して自分を責めた。バランシンは「あれは、予兆だったんだ」と後に語っている。 『復活』の最後でルクレアが踊り演じた少女には奇跡の回復が訪れたが、現実ではそういうわけにはいかなかった。華やかだったルクレアのキャリアは、この病魔によって断ち切られることになった。医師たちは彼女に「2度と歩くことはできず下半身のマヒが続く」と告知した。バランシンが奇跡を願って神に祈りをささげた時期もあったが、全ては空しかった。 ルクレアの入院中、バランシンは彼女に付き添って数か月間コペンハーゲンに留まった。翌年3月、ルクレアはバランシンと実母に付き添われてニューヨークに戻り、エレベーター付きのマンションに移住してリハビリテーションを続けた。さらに治療を続けるため、次にジョージア州ウォームスプリングス(en:Warm Springs, Georgia)に滞在することになり、その結果バランシンは丸1年バレエから遠ざかることになった。そのためバランシンについて引退の噂さえささやかれるに至ったものの、彼は1957年の秋にバレエ界に戻ってきた。バランシンの不在によってNYCBは明らかに低迷していたが、彼が復帰するとかつての輝きを取り戻した。 ルクレアは失意と絶望のただ中にいた。彼女はバレエについて話をするようなことはなく、周囲の人々も気を遣ってバレエの話を避けていた。やがてルクレアはどん底の精神状態から脱して、自らバレエの話題を語り始めた。1962年に『ラ・ヴァルス』が再演されたときには、かつての自分の持ち役を踊るパトリシア・マクブライド(en:Patricia McBride)の指導を引き受けていた。
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