甲標的との戦い
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「ラミリーズ (戦艦・2代)」の記事における「甲標的との戦い」の解説
「セイロン沖海戦」も参照 1941年(昭和16年)10月、ラミリーズはセイロン島を拠点とする第3戦艦戦隊 (3rd Battle Squadron) に配備され、極東にむかった。12月初旬、太平洋戦争開戦直後のマレー沖海戦で東洋艦隊 (Eastern Fleet) は主力艦2隻を失う。1942年(昭和17年)3月には、インド洋で日本軍の攻勢を迎え撃つ。ジェームズ・サマヴィル司令長官は麾下の艦艇を、旗艦ウォースパイト (HMS Warspite) とイラストリアス級航空母艦を基幹とするA部隊 (Force A) と、R級戦艦4隻と軽空母ハーミーズ (HMS Hermes, 95) を基幹とするB部隊 (Force B) に分割した。本艦はアルジャーノン・ウィリス提督が指揮するB部隊に所属した。セイロン島に空襲を仕掛けてきた南雲機動部隊に対し、ラミリーズを含む東洋艦隊主力は交戦を避けて退避した。本海戦で主力艦隊同士の決戦は生起せず、東洋艦隊は分派していた空母ハーミーズと重巡2隻などを喪失した。 「マダガスカルの戦い」も参照 イギリス東洋艦隊はセイロン島やアッドゥ環礁を根拠地としていたが、日本軍の襲撃を恐れてアフリカ大陸東海岸やマダガスカルに新拠点を求めた。5月上旬、戦艦ラミリーズ(サイフレット提督、イギリス海兵隊のスタージェス将軍旗艦)および装甲空母2隻(イラストリアス、インドミタブル)、巡洋艦複数隻などはマダガスカルのディエゴ・スアレス攻略作戦(アイアンクラッド作戦)を敢行した。この海域にはフランス海軍(ヴィシー政権)の潜水艦が配備されており、上陸作戦でフランス潜水艦ベヴェジェ (Bévéziers, Q179) とル・エロ (Le Héros, Q170) がソードフィッシュ雷撃機に撃沈され、5月8日には空母インドミダブル (HMS Indomitable, 92) を襲ったフランス潜水艦モンゲ (Monge, Q144) がイギリス駆逐艦に撃沈されている。占領作戦に成功したあと大半のイギリス攻略部隊はディエゴ・スアレスを離れたが、ラミリーズはディエゴ・スアレスに留まっていた。 日本海軍はディエゴ・スアレス沖合に第八潜水戦隊を展開し、甲標的による奇襲作戦を敢行する。5月29日に伊10(第八潜水戦隊司令官石崎昇少将)から発進した水上偵察機がディエゴ・スアレス湾内を偵察、クイーン・エリザベス級戦艦1隻、アリシューザ級軽巡洋艦1隻、その他の在泊を認めた。30日、伊16と伊20が特殊潜航艇を発進させた。伊16の甲標的(岩瀬勝輔少尉、高田高三 二曹)は座礁して攻撃に失敗したが、伊20の甲標的(秋枝三郎大尉、竹本正巳 一曹)は湾内に侵入した。甲標的が発射した最初の魚雷は午前2時20分(日本時間20時20分)にラミリーズに命中、その約5分後、2本目の魚雷がタンカーブリティッシュ・ロイヤルティ (MV British Loyalty) に命中した。ブリティッシュ・ロイヤルティは沈没した。 甲標的が発射した魚雷は、ラミリーズは左舷のA砲塔前部に命中した。前部15インチ砲の弾薬庫などが浸水したが、機関は無事であった。イギリス側はフランス潜水艦の仕業だと判断したという。ラミリーズは応急修理を受けた後、ダーバンへ向かった。ダーバンには6月9日に到着し、そこで修理を受けた後9月にはイギリスへ向かい、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}プリマスに帰還して[要出典]修理された。この間弾火薬庫の上面に装甲を追加され、15.2cm副砲4門を撤去して4連装ポンポン砲2基を増設した。ラミリーズが再就役したのは1943年(昭和18年)5月のことであった。 姉妹艦のリヴェンジ (HMS Revenge, 06) やレゾリュ―ション (HMS Resolution) が予備役に入る中、本艦はリヴェンジ級戦艦のなかでも保存状態が大変良かったため、引き続いて現役に留まった。
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