田村氏の内紛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/06 15:35 UTC 版)
天正14年10月9日(1586年11月19日)、田村清顕が病死した。愛姫には男子がまだ生まれておらず、田村氏の政務は一門の4名の重臣(田村月斎・田村梅雪斎・田村清康(梅雪斎の子)・橋本顕徳)が協議して、愛姫が男子を生むまでは当面当主を空席として伊達氏と協調して家政を行う方針を固めた。だが、田村氏側には政宗と愛姫が不仲であるという噂が広まり、これを不安視した清顕未亡人(於北)は実家の相馬氏を頼ろうと考え始める。また、家中では田村月斎と田村梅雪斎が権力争いを続けていた。 天正16年(1588年)に入ると、政宗は大崎氏・最上氏の連合軍に敗れ(大崎合戦)、一旦は政宗に追われて蘆名氏に亡命した大内定綱が政宗に寝返ったことを知った蘆名氏の軍も侵攻してきた。そして、4月7日に田村氏の家臣である小手森城の石川光昌が相馬義胤(清顕未亡人の甥)に誘われて離反する。これを知った政宗は小手森城に近い宮森城の白石宗実に警戒を命じると、5月2日に四面を敵に囲まれている中、小手森城を攻撃する陣触を行い、15日に米沢城に出陣してその日のうちに大森城に入り、さらに小手森城を攻めようとするが、天候悪化により大森城に止まらざるを得なかった。 天正16年閏5月12日(1588年7月5日)、事態は急変する。相馬義胤が清顕未亡人(於北)や大越顕光・郡司敏良ら相馬派の家臣の支援を受けて、三春城への入城を強行しようとする。だが、田村月斎や橋本顕徳らの抵抗を受けて城内で追い返され、船引城に撤退する(田村梅雪斎父子の行動については後述)。これを知った政宗はその日のうちに本陣を宮森城に移した上で小手森城攻撃を強行して16日には陥落、これを見た義胤が19日に船引城から撤退すると、23日には大越顕光の大越城を攻撃した。相馬義胤は蘆名義広・佐竹義重(義広の実父)・岩城常隆に援軍を求めた。蘆名・佐竹は援軍に応じたが、田村領を狙っていた常隆は義胤の三春城入城強行に反発して援軍を拒否、さらに岩城氏の家臣から蘆名・佐竹両氏の動きが政宗に伝わってしまった。政宗は片倉景綱・伊達成実とともにこれを迎え撃ち、田村氏の援軍である田村月斎・田村梅雪斎も駆けつけている。これが、郡山城を巡る攻防戦郡山合戦へと発展することになる。郡山合戦は40日にわたる持久戦と小競り合いを繰り返したが、7月に入ると岩城常隆が石川昭光を誘って伊達・蘆名・佐竹の和睦の仲介に乗り出し、18日に停戦が実現、21日には政宗は宮森城に引き上げることになった。なお、この時の和議内容には相馬氏も従わせること、義胤の三春入城の原因を作った大越顕光は岩城氏に預けられた後、政宗の元に送られることも確認された。 ところが、この協議中に政宗は大叔母である清顕の母(隆顕未亡人)から密書を送られる。それは清顕未亡人が相馬義胤と良からぬことを企んでいること、清顕の死も彼女の差し金かもしれないという内容であった。政宗は22日に田村月斎・田村梅雪斎・橋本顕徳が揃って宮森城を訪れるとこの件を協議、翌日になって3名から田村氏の家督を預かる名代の決定を勧められた政宗は清顕の甥の孫七郎を名代にすることを決め、同時に清顕未亡人を船引城で隠居させることを決めた。8月3日、清顕未亡人は船引城に退き、孫七郎が三春城に入って後に政宗の偏諱を得て田村宗顕と名乗る。そして、8月5日、政宗は三春城に入って田村氏の家臣団の挨拶を受けた後、亘理元宗(伊達稙宗の子・隆顕未亡人の実弟)ら伊達一族の諸将を率いて城内東館に住む隆顕未亡人の元に挨拶に伺い、彼女を労わった。以降、8月5日から9月17日まで政宗は三春城に留まって田村氏家中の相馬派を排除して同氏を事実上の傘下に置く新体制を確立させることになる(田村仕置)。 ところが、政宗入城の前日である8月4日、田村梅雪斎・清康父子が突然三春城を出奔してしまったのである。これまで、『伊達治家記録』に梅雪斎父子が相馬派である記述があることや清顕未亡人が三春城を退去した翌日に梅雪斎父子が三春城を退去していることから、梅雪斎父子は相馬派で清顕未亡人や相馬義胤に通じた相馬派であると解釈されてきた。しかし、垣内和孝は相馬義胤が三春城に入った時に梅雪斎はこれに協力せずに撃退する側に回っていること、その後の大越顕光討伐には田村梅雪斎の本拠地である小野城からも兵が出されていること、相馬義胤の要請で援軍に来た蘆名軍と政宗が戦った郡山合戦で梅雪斎自身も伊達軍の一員として戦っていることなどから、『伊達治家記録』の記述とは異なり梅雪斎父子も伊達派であったとする。そして、梅雪斎出奔前後の政宗の書状などから、田村氏を追放された牢人衆(相馬派か?)と取り扱いを巡って領外への追放を主張する田村月斎・橋本顕徳とこれに慎重な梅雪斎父子が意見対立した結果、伊達派内部で内紛が起きて梅雪斎父子が失脚したとの見解を出している。垣内は田村月斎の派閥が「月一統」と呼ばれて田村家中で権勢を振るい、政宗ですら一時はその排除を考える程であったことを指摘し、当時の田村家中は田村月斎・橋本顕徳の月斎派(=月一統)と田村梅雪斎父子の梅雪斎派と大越顕光らの相馬派の3つに分かれており、内政では月斎派と反月斎派(梅雪斎派と相馬派)が対立し、外交では伊達派(月斎派と梅雪斎派)と相馬派が対立していたとする新説を出している。
※この「田村氏の内紛」の解説は、「田村仕置」の解説の一部です。
「田村氏の内紛」を含む「田村仕置」の記事については、「田村仕置」の概要を参照ください。
- 田村氏の内紛のページへのリンク