田村氏時代1
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 08:27 UTC 版)
三春城がいつ頃築城されたのかはわからない。史料上はっきりしていることは、永正年間(16世紀初頭)に田村義顕が守山城(現在の福島県郡山市)より三春城に本拠を移したという。田村氏は田村郡全域を支配していた豪族で、系図上は坂上田村麻呂の子孫となっているがその点は疑問符が付く。田村氏は義顕の後、田村隆顕、田村清顕と続く。隆顕と清顕の時代、田村郡のある仙道地域(現在の福島県中通り)は、会津黒川城の蘆名氏、小高城の相馬氏、岩城郡の岩城氏、出羽米沢城の伊達氏、常陸の佐竹氏などの周辺各地の有力豪族がその勢力拡大のため進出してきていた。それらの豪族より力の劣る田村氏は、各有力豪族と血縁関係を結び、それら豪族の利害関係を利用して、領地を保つ状況であった。 例えば、永禄元年(1568年)の蘆名盛氏の仙道侵攻に対しては、隆顕は自分の正室(伊達稙宗の娘)の実家・伊達氏を後盾にこれに対抗し、また、天正元年(1573年)の佐竹氏の仙道進出には、一転蘆名氏と連合を組んでこれを撃退している。しかし、翌年に蘆名氏と佐竹氏の同盟が成立、さらに同じ仙道地域の小豪族である二本松城の二本松義継や小浜城の大内定綱らもそれに呼応して反田村氏となったため、田村氏は四方を敵に囲まれることとなった。 このような危機的状況の中、田村氏は隆顕から義顕に代替わりした。清顕の正室は相馬顕胤の娘であったので、相馬氏とは友好関係が保たれてはいたが、さらに清顕の一人娘・愛姫を伊達輝宗の嫡男・政宗に嫁がせて、伊達氏とも同盟関係を結ぶことにした。しかしこのころ、相馬氏と伊達氏は伊具郡(宮城県丸森町)を巡って対立を深めており、相馬氏は佐竹氏・蘆名氏等と手を組むこととなる。
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