田村氏時代2-伊達政宗との関わりとは? わかりやすく解説

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田村氏時代2-伊達政宗との関わり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 08:27 UTC 版)

三春城」の記事における「田村氏時代2-伊達政宗との関わり」の解説

天正12年1584年)に伊達政宗伊達氏家督相続すると、政宗積極的に仙道進出繰り返すこのため田村氏を除く仙道地域の諸豪族佐竹蘆名岩城相馬などと連合組み伊達氏対抗した。しかし政宗は、父・輝宗が二本松城二本松義継謀殺されるなどの試練乗り越え天正13年1585年)冬、人取橋の戦いにおいて伊達田村軍は数的に圧倒的不利な状況佐竹氏蘆名氏等の連合軍仙道制覇阻むことに成功するその後形勢逆転し政宗南奥羽制覇つながっていくのだが、その過程において、天正14年1586年)に清顕が死去し、清顕に男子がいなかったため田村氏家督不在となる状況生じた。そのため、清顕夫人相馬顕胤の娘)が三春城となったが、このとき、田村家60数名一致団結約した誓書血判状)をしたためている。しかし、血判状とは裏腹に田村家中は清顕夫人の縁に頼って相馬氏同盟を組むべしと主張する一派相馬派)とこれまでどおり伊達氏との同盟継続すべしと主張する一派伊達派)に分裂したこのような家中状況の中、天正16年1588年)に相馬派は家中掌握のため相馬義胤三春城入城させようとする。義胤は三春まで進出するが、伊達派の田村月斎等の反撃にあい、撤退余儀なくされた。その後、その年の8月政宗三春城入城し1ヶ月半程滞在して田村領の仕置行い家中から相馬派は一掃され、清顕の甥の田村宗顕三春城主とした。この時をもって田村氏実質的に伊達氏従属したといってよい。なお、田村氏小田原征伐に参陣しなかった(政宗指示による)ために豊臣秀吉奥州仕置によって改易となった田村家中はその後伊達氏仕えた者、新領主蒲生氏仕えた者、帰農した者など、それぞれの道を歩むこととなった。宗顕は流浪した後、政宗死後愛姫とりなしによって白石城主・片倉重長仕えた

※この「田村氏時代2-伊達政宗との関わり」の解説は、「三春城」の解説の一部です。
「田村氏時代2-伊達政宗との関わり」を含む「三春城」の記事については、「三春城」の概要を参照ください。

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