産業界の復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 23:14 UTC 版)
当時の能代市の中心産業は製材、合板やベニヤ板等の製造、樽製造、銘木などの木材加工業であり、これら工場は市街中心部にあったため、大火により軒並み焼失してしまった。しかし、この時は復旧への意欲が強く、誰がいち早く工場を再開させるか競い合うような活気があった。2月24日には秋田営林局にて今後の見通しに向けた話し合いがもたれている。その中では、罹災した各工場が大火前に保持していた製材能力2,631馬力を2,000馬力まで圧縮し、最大手の秋田木材に300馬力を配分(大火前は675.5馬力を保有)、昭和木材(同じく310馬力を保有)、東北木材(同303馬力を保有)、杉本材木店(同320馬力を保有)の3社に各200馬力を配分、以下これに準じることとし、その見返りとして能代市の産業向けに国有林材の30万石特売を5年間保証する方針が示されている。 2月24日同日には能代営林署でも木材復興会議が開かれていた。ここでは今後の見通しと配材の要領などが説明され、能代市自身が復興用材を大量に必要としていたため、丸太の県外移出を極力避けて進駐軍命令及び中央価格の混乱を避けるための最低量に限定し、工場復興用として5万石、一般住宅用として10万石を配分する方針が示された。当時の国有林は戦中戦後の過伐採のために木材生産量が年々激減している状況にあったが、能代市の復興のため、秋田営林局でもたれた話し合いと同様に木材の30万石特売の方針が示されており、2月28日に正式に業者に伝えられている。これは復興のための優待的な特売であったため、その条件として失業者を出さないこと、生産力を調整することの2点が至上命題となった。罹災した工場には旧来以上の規模で復興したいという意向もあったが、増産競争による共倒れを防ぐための生産調整が不可欠だった。かつて30万石以上の製材実績のあった能代市では柳谷市長が30万石の特配では小さいのではないかと懸念したが、市内製材界の能登斌治(東北木材専務、のち社長)は、将来の特売の縮小が見込まれる中で今後5年間に渡り30万石が配分される保証が非常に好条件であると見込んで賛成している。実際30万石特売の方針が示された当初、業者の反応も様々で当初は賛否が対立し、生産能力の圧縮という条件に激怒する者もあったが、この方針が好条件であることが呑み込めていくにつれ反対意見が沈静化し、最終的に満場一致で受容する方向に至った。一方、この30万石特売の方針は柴田栄秋田営林局長の独断で示されたものであったため、柴田が上京して三浦辰雄林野庁長官に大論争の末追認させる経緯もあった。こうして決定された30万石特売の方針は他地域からの反発も招いたが、能代市内業者からの反駁により表面的には何も言われなくなった。また、生産能力の調整は、罹災しなかった工場からの反発も招いたものの、営林局、県、業界の監視のもと着実に実行され、6月1日、3日の両日に実態調査が行われた。ここでは目標の2,000馬力への圧縮は未達だったが、減縮率約60%、2,200馬力に圧縮したことが報告されている。 一方、当初よりこの優待は能代市復興のために出されたものであり、営林局では生産力圧縮と並ぶ条件として、失業者を出さないことについて言及してきた。しかし、最大手の秋田木材が3月19日に120人解雇の方針を組合側に通告し、失業の懸念は現実のものとなった。秋田木材の社長相沢治一郎は、30万石確保の声明が示された2月28日には、その席上で方針に従うことを表明しており、周囲に与えた困惑は大きかった。事実、秋田木材の解雇問題が引き金となる形で他社にも人員整理が波及し、6月には残存していた松下能代工場までもが解雇を発表した。これに際して秋田営林局長の柴田栄は、「焼けた工場がいかに大なる犠牲を払って、市民の生活拠点を死守しつつあるかを、この際反省すべきであろう。」と、厳しく非難する声明を発表している。
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