王者を襲う苦境、そして底力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 07:56 UTC 版)
「デイモン・ヒル」の記事における「王者を襲う苦境、そして底力」の解説
1997年、トム・ウォーキンショーが買収したアロウズに誘われ移籍。移籍先を決めるまでには同年よりF1参戦するスチュワート・グランプリからもオファーを受け興味を抱いたが、「F1参戦初年度と言う事もあり、リスクが高すぎる」「(成績がひどかった場合に)古くから続くヒル家とジャッキー・スチュワート一家との関わりを拗れさせたくなかった」との理由で加入を見送った。他にジョーダン、プロストからのオファーも届いたがどちらも提示が2年契約で、ニューウェイが移籍したマクラーレンへの翌年移籍を視野に入れていたヒルの意向とは合わなかった。 フランク・ダーニーが設計したシャーシA18はテストでも満足に走り込みが出来ず、当時としては破格の軽量設計を追求したヤマハV10エンジンにもトラブルが続出したうえ、ブレーキに致命的な欠陥を抱えたまま、開幕戦のオーストラリアGPではあわや予選落ちの危機に立たされ、決勝ではフォーメーションラップ中にマシントラブルでリタイアの憂き目にあった。第2戦ブラジルGPでは予選9位を獲得し、決勝では一時期はシューマッハを従え4位を走っていたが、残り4周でリタイヤした(結果は完走扱いの17位)。その後も第6戦のスペインGPまでリタイヤが続き、マシンがまともに走らない間、ヒルはモチベーションを失っていた。その当時を「あれは私ではなく、F1が受けた辱めだったと思う。前年度王者をこんな風に扱いたかったら好きにすればいいと思うしかなかった」「私は与えられた環境でベストを尽くすしかなかった。本当に悔しかったが、これも仕事であり、サラリーを貰っている以上は耐えた」と振り返っている。 5月10日付けでフェラーリから移籍したジョン・バーナードがテクニカル・ディレクターに就任し、テストの方向性を決めてから、A18の信頼性は向上。ヒルも第7戦カナダGPでチームメイトのペドロ・ディニスと共に完走してから、第9戦イギリスGPで6位入賞と初ポイントを獲得した。 第11戦ハンガリーGPではただ1人ブリヂストンタイヤの性能を生かし、予選3位に食い込んだ。決勝では序盤でグッドイヤータイヤとのマッチングに苦しむフェラーリのミハエル・シューマッハを1コーナーで抜き、そのまま2位のヴィルヌーブに35秒の差を付ける独走態勢をキープし、アロウズチーム・ヤマハエンジン・ブリヂストンタイヤにとっては初優勝の時が迫っていた。しかしレース終盤に油圧系の不調が引き金となってスロットルが戻らなくなったうえ、ギヤボックスが3速に固まったことで急失速した結果、ファイナルラップで前年のチームメイトだったヴィルヌーヴに抜かれ、優勝を逃した。しかしレース前の下馬評を覆す2位に入り、「非力なマシンでもレースを支配出来る力」を見せ付けるターニングポイントとなった。ヒル自身はマシンの改良の積み上げやブリヂストンタイヤの性能もさる事ながら、「(ハンガロリンクは)一定曲率の180度ターンがいくつもあり、そこでのタイムロスを出来るだけ抑える走法が要求される。あの週末、私はそんな風にマシンを走せられる方法を発見した。まるでゴーカートに乗っているみたいに自在にドライブ出来た」と語っている。なお終盤の失速の原因は価格にして1ポンドに満たない「ハイドロ系のポンプに付いていたワッシャー」の破損であったと後年明かされている。 最終戦ヨーロッパGPではトップと0.058秒差の予選4位に入った。このとき、上位の3台は全くの同一タイムであったが、ヒル自身は「ヘレスはハンガロリンクとコース特性が似ており、私のマシンもバッチリ決まった」「でも決勝でミハエルとジャックとの間に起こったドラマが余りに強烈で、自分の好結果も含めて他の全てが吹き飛んでしまった」と語っている。なお、このタイムアタックの際、ミナルディの片山右京がスピンしてヒルの邪魔をする形になっており、後年片山は「前戦日本GPで引退発表した事で気が抜けて、予選を戦うと言うよりF1を楽しんでいる感じだった。だからスピンしてしまったと思う」とヒルへの謝罪を込めながら振り返っている。
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