王政復古に尽力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 07:29 UTC 版)
「ジョージ・マンク (初代アルベマール公)」の記事における「王政復古に尽力」の解説
1658年、クロムウェルが死去して息子のリチャード・クロムウェルが護国卿となったが、軍部の反抗を抑えきれず翌1659年5月に退任すると権力闘争が起こり、クロムウェルの部下ジョン・ランバートが10月にクーデターでランプ議会を解散させて軍事政権を樹立した。この間、スコットランドに留まっていたマンクは大陸に亡命中の王党派と連絡を取り、スコットランドから南下して議会の召集を要求して12月に復活させた。一方、バルト海に派遣していた艦隊司令官エドワード・モンタギューをイングランドへ呼び戻し、チャールズ1世の息子チャールズ2世ら王党派を迎え入れるよう命じて着々と王政復古への布石を打った。 翌1660年1月にスコットランドとイングランドの国境線であるツイード川を越えてイングランドに進出、支持を失ったランバートを捕らえてロンドン塔へ投獄、2月にロンドンへ入った。そこで共和政に不満を持ち王政復古を望む国民の支持を背景に、クロムウェルに解散させられた長期議会を召集させて共和政から排除された長老派を含む議員を復帰させた。更に、3月に革命と無関係な議会形成を目標に議会を解散させて総選挙を実施、合わせてチャールズ2世と側近のエドワード・ハイド(後のクラレンドン伯爵)に政界の混乱を避けるための恩赦実施などを打ち合わせ、4月にオランダのブレダでチャールズ2世が発したブレダ宣言成立に繋げた。 そして、4月に王党派も復帰した仮議会が成立、5月の王政復古宣言を見届け、モンタギューの艦隊に乗ってイングランドへ帰国したチャールズ2世を出迎えて、大きな混乱も無く王政復古を実現させた。チャールズ2世からは恩賞として軍最高司令官・寝室係侍従・アイルランド総督・主馬頭・ガーター騎士に叙任され、アルベマール公爵・トリントン伯爵・マンク男爵・ビーチャム男爵に叙爵され7000ポンドの年金も約束された。マンクに協力して王政復古に尽くしたモンタギューと秘書のサミュエル・ピープスも恩賞を与えられ、モンタギューはサンドウィッチ伯爵に叙爵、ピープスはイングランド海軍の官僚として出世していった。 マンクの騎馬護衛隊(Monck's Life Guards)は近衛騎兵となった3個中隊の第2/クィーンズ中隊(Queen's Troop)となり、その後他の中隊と統合されてライフガーズ連隊となった。翌1661年には、”モンクの歩兵連隊”が近衛歩兵連隊となり、後には当時からの通称である「コールドストリームガーズ」(Coldstream Guards)が正式名称となって現在に至る。 チャールズ2世からの恩賞は1663年にも与えられ、北アメリカのカロライナ植民地の所有者8人のうち1人に選ばれた。現在のノースカロライナ州にある三角江のアルベマール・サウンドはマンクの爵位に因んで名付けられている。
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