熊谷市の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 23:44 UTC 版)
熊谷市 熊谷市の位置 日本の首都・東京の北西約60kmに位置する熊谷市は江戸時代より交通の要衝として栄え、1933年(昭和8年)4月1日に市制が施行され県北第一の都市となった。熊谷は市制施行以前から商工業都市として発展したが商業面では米、麦、繭の集散地として栄え、工業面では特に製糸業が栄え片倉工業などの工場が進出した。1943年(昭和18年)、戦力増強企業整備により企業再編が進められると市内の製糸工場は軍需生産への転換が計られ、林組熊谷工場が富士光機、埼玉短繊維工業が埼玉航空工業と改められた。こうした軍需工場への転換は熊谷に限らず製糸業の盛んな深谷、本庄、飯能、松山、寄居などの都市で積極的に行われ、飯能には1945年(昭和20年)の時点で173の軍需工場が存在したが、松山周辺の丘陵地帯では中島飛行機や日立航空機などの軍需企業の地下工場が建設された。 1938年(昭和13年)に衆議院議員・清瀬規矩雄が熊谷航空工業を設立し、中島飛行機の協力会社として板金や尾翼や後部胴体の組み立てを行ったが、後に海軍の指定工場となった。また、1939年には航空機工業の需要拡大に伴い、航空機用ピストンリング専門の理研工業熊谷工場が建設された。さらに1943年(昭和18年)12月、群馬県邑楽郡小泉町にある中島飛行機小泉製作所への工員と資材輸送を目的として、東武熊谷線熊谷駅から妻沼駅間が開業した。これらの軍需工場には勤労動員体制が強化されたことに伴い、1944年(昭和19年)夏頃から埼玉県立熊谷中学校や埼玉県立熊谷女学校などの生徒や一般市民が動員されたが、最盛期の理研工場は約5,000人の工員を有していた。こうした主要工場のほか市内中心部に点在する繊維類などを扱う町工場や鉄工場が戦争の激化に伴い部品製造のための軍需工場に転換が計られたとされるが、その規模や実態については定かではない。一方、熊谷女学校には理研の学内工場が設置され、ピストンリングの製造や板金作業などが行われていたほか、中島飛行機技術部第二設計課や海軍艦政本部が設置された。 軍事面では県内には航空教育や首都防衛の目的のための飛行場や航空施設が数多く置かれたが、熊谷市の近郊にある大里郡三尻村には1935年(昭和10年)に熊谷陸軍飛行学校が設立され、少年航空兵の教育が行われていたほか、1944年(昭和19年)には同校の補助として大里郡御正村と小原村にまたがる地域に小原陸軍飛行場が建設された。1945年(昭和20年)に入り本土決戦が差し迫ると、埼玉県域は関東方面の防衛を目的とする第12方面軍の指揮下に置かれ、熊谷にも東京師管区隷下の第十九特設警備工兵隊が、市内の熊谷中学校に陸軍航空隊が、熊谷市立熊谷西国民学校や大里郡奈良村に陸軍通信隊が駐屯した。
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