煉瓦・瓦製造業
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「アルフレッド・ジェラール」の記事における「煉瓦・瓦製造業」の解説
ジェラールが瓦と煉瓦の製造をいつから始めたかの正確な記録は確認されていないが、山手77番で「A.GERARD/1873 YOKOHAMA 三三五二/ジェラール ヨコハマ 百八十八バン」の刻印のある瓦が見つかっている。ディレクトリには1875年から1905年まで瓦製造の記録があり、彼の職歴の中で最も長いものである。「東京日日新聞」では1875年5月22日から同29日まで広告が1週間掲載されたが、「横浜毎日新聞」やフランス語紙「レコー・ドュ・ジャポン」には掲載されなかった。1878年にジェラールが帰国したが、そののちに幾人かの後継者が事業を引き継いだ。フランス人のレイノー(John Reynaud)は横浜グランドホテルの支配人を務めていたが、ホテルが経営難に陥った時に退職。フランス領事館の通訳などを務め、1880年9月にジェラールの代理店として居留地157番に店を構えた。この頃には粗悪な模造品が出回っており、レイノーは注意を呼び掛ける広告を出している。1880年2月22日に発生した横浜地震では、孤児院「仁慈堂」の屋根の日本瓦は落下したものの「佛国風ニ模シタル瓦」には損傷が見られなかった。同年12月20日の大火でも瓦葺きの家屋の多くは類焼を免れたことから、ジェラールの瓦は広く関心を集めた。1882年12月にレイノーの販売権が終了。フランス人のドゥヴェーズ(Adrien Devése)が経営権を譲り受け、明治末まで工場の経営を担った。1907年7月10日の横浜貿易新報に瓦工場売却の広告が出ており、廃業したのはこの頃とみられる。 千葉大学の考古学者岡本東三は、ジェラール瓦をI型(IA~IE)、II型、III型に分類した。I型は1873年から1876年にかけて製造されたもので、和瓦に近い正方形の形状である。1876年~1878年、1885年~1887年、1889年に製造されたII型は縦長で、裏面には網目模様とともに「TUILERIE MECANIQUE」と、機械製であることをフランス語で謳っている。III型はII型に比べシンプルなデザインとなり、裏面の刻印は「A GERARD'S STEAM TILE & BRICK WORKS」と英語に改められた。製造時期は1887年と1889年で、II型と平行して製造された。I型とII型は赤い瓦と黒い瓦が混在しているのに対し、III型は黒い製品のみが製造されている。横浜都市発展記念館の青木祐介は、1878年から1885年までの空白期間のうちにジェラールからドゥヴェーズに工場が引き継がれ、II型はジェラールの型、III型はドゥヴェーズによる型で製造されたものと推測している。 煉瓦の製造については、一般的に月桂樹の刻印が平面(ひらめん)全体に入った橙色と黒色の二種の普通煉瓦(所謂ジェラール煉瓦)が良く知られているが、非常に優美な外観を持つこの普通煉瓦は実際に使用されている構造物が発見されていないばかりか、発見数が非常に少なく、また、橙色の「赤煉瓦」に関しては発見された物の殆どが非常に脆く、品質的な問題があるように見える。この事から、普通煉瓦に関しては試作のみで、販売はされなかった可能性がある。 実際に製品として販売された煉瓦は、コンクリートブロックのように幾つかの空洞部分を設けた「有孔煉瓦」が中心だったとみられ、こちらに関しては現存する構造物でも使用例が見られる(例えば神奈川県藤沢市鵠沼海岸に2016年9月現在現存する某個人宅の煉瓦塀等)。有孔煉瓦には多くのバリエーションがあり、穴の開け方では小口方向に4穴、長手方向に2穴、長手方向に3穴、オナマ2個分の大きさで小口面が正方形をしており長手方向に4穴(田の字型に穴が開いている)等がある他、長手方向に2穴の物では平面と長手面に等間隔で線状に突起がある物と無い物、更には橙色と黒色の物があるなど、少なくとも7~8種類が確認されている。従って、瓦の他にも有孔煉瓦はある程度の量産販売が行われていたものと思われる。
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