潜水艦作戦の増強とアメリカ合衆国の参戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:07 UTC 版)
「第一次世界大戦」の記事における「潜水艦作戦の増強とアメリカ合衆国の参戦」の解説
1916年1月よりヴィルヘルム2世を説得していたドイツ最高司令部は1917年1月8日から9日にヴィルヘルム2世の許可を得て、2月1日に無制限潜水艦作戦を再開することを決定した。決定の背景には1916年12月の平和案とその拒否があった。1916年12月18日にアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが連合国に対し秘密裏に仲介を打診していたが(仲介は後に断られた)、それが1月12日に明るみに出るとドイツ国内が無制限潜水艦作戦に対する協力ムードになった。ウィルソンは仲介の打診にあたって、連合国に戦争目標の開示を求めた。ベルリーナー・ターゲブラット(英語版)の編集長テオドール・ヴォルフ(英語版)は1月12日と13日に下記のように記述した:「連合国のウィルソンに対する返答文が公表された。それは連合国の戦争目標を告知していた。ドイツがそれまで征服した領土のドイツからの分離、民族自決に基づくオーストリア=ハンガリーの完全解体、トルコ(オスマン帝国)をヨーロッパから追い出すなど。影響は巨大であった。汎ゲルマン連盟(英語版)などの連中が大喜びした。連合国が絶滅戦争(ドイツ語版)を欲しくなく、交渉に前向きとは誰も言えなくなった。(中略)連合国の返答により、皇帝は人民に訴えた。誰もが無制限潜水艦作戦を準備した。」。中央同盟国はウィルソンが提案した国民投票を拒否。2月3日にはドイツの無制限潜水艦作戦再開によりアメリカがドイツと断交した。 英語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。Formal U.S. Declaration of War with Germany, 6 April 1917 ウィルソンはアメリカ合衆国議会で「平和を愛する」民主主義者の世界中の「軍事侵略的な」独裁主義者に対する十字軍に参加するよう呼びかけた。その4日後の1917年4月6日、アメリカがドイツに宣戦布告した。両院とも圧倒的多数で参戦を決議した。参戦の裏には様々な理由があった。アメリカとドイツの戦後に対する構想はお互い相容れないものであり、ドイツが大陸ヨーロッパの覇権を握ろうとしたことと全世界においても野心を前面に出したことでアメリカの利益に適うことができなくなった。戦争以前でもアルフレート・フォン・ティルピッツのティルピッツ計画(英語版)が長期的にはモンロー主義におけるアメリカの利益に反すると信じられており、また20世紀初頭のアメリカの政治家や学者はドイツの文化が優越しているとの主張やドイツ人の国という思想に不信感を持っていた。開戦以降、アメリカと連合国の経済関係が緊密になり、ブライス委員会(英語版)などでドイツの陰謀が報告され、さらにルシタニア号が撃沈されると反独感情が高まった。しかし、第一次世界大戦の開戦後にアメリカが軍備拡張を行ったのは参戦のためではなく、終戦後に起こりそうな対独戦争に備えるためだった。1916年アメリカ合衆国大統領選挙(11月7日)の選挙運動においても、ウィルソンはアメリカの中立を強調したが、彼が当選した後もドイツの態度が強硬のままだったことは参戦を煽動するのに有利だった。そして、決定的となったのはウィルソンの講和仲介に対するドイツの返答だった。極秘で行われたドイツの講和条件についての返答は実質的には仲介を拒否する返事であり、ドイツの無制限潜水艦作戦再開宣言とほぼ同時になされた。これを聞いたウィルソンははじめはそれを信じられず、その後は深く失望した。ロバート・ランシングやエドワード・M・ハウスなどウィルソンの顧問は参戦を推進したが、ウィルソンは2月3日にドイツと断交しただけに留まり、ドイツの脅しが現実になるかを見極めようとした。3月1日、『ニューヨーク・タイムズ』がツィンメルマン電報を公表した。電報の内容はドイツがメキシコに資金援助を与えて、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナの領土を約束する代償としてメキシコがドイツと同盟を結ぶ、という提案だった。電報が公表されると、アメリカが戦争に参戦することに疑義を挟む人はいなくなり、また3月にはドイツの潜水艦攻撃で再びアメリカ人が死亡した。アメリカはドイツに宣戦布告した後、12月にはオーストリア=ハンガリーにも宣戦布告した。
※この「潜水艦作戦の増強とアメリカ合衆国の参戦」の解説は、「第一次世界大戦」の解説の一部です。
「潜水艦作戦の増強とアメリカ合衆国の参戦」を含む「第一次世界大戦」の記事については、「第一次世界大戦」の概要を参照ください。
- 潜水艦作戦の増強とアメリカ合衆国の参戦のページへのリンク