治安と人権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 14:18 UTC 版)
NRM は治安と人権の回復を掲げて権力を得た。10項の目標の内にも挙げられており、ムセベニは就任演説の際にも、 「我々の計画の2点目は人と財産の安全保障である。全てウガンダ人はどこであれ[絶対に]安全に暮らさなくてはならない。我々の安全を脅かす者はいかなる個人及び集団も容赦なく討ち果される。ウガンダの人々は我らの国土の内の仲間の人間からではなく我々を超えた自然に従って死ぬべきである。」 と述べた。しかし NRM がカンパラに新政権を発足させて以降も反乱と戦闘が続きこの目標が全土に及んだことはない。就任当初ムセベニは支持基盤のバントゥー系の多い南部及び南西部から強い支持を得た。ムセベニはこれまで政治的な発言の少なかった北東部の半遊牧民のカラモジョン族とも手を結んだ。しかしスーダンと国境を接する北部地域では混乱が続いている。西ナイル地方ではカクワ族とルグバラ族のかつてのアミン支持者らによるUNRFとFUNAが活動していたが、モーゼス・アリが第二副首相になることで戦闘を停止した。南部出身者による政府が立てられたことで北部出身者は不安を覚えた。ランゴ族、アチョリ族、イテソ族の反乱軍は NRA の強さに驚き、スーダン南部へと逃れた。アチョリのウガンダ人民民主軍 (UPDA) はアチョリランドのNRA による占領を阻止できず、自棄的な千年王国説を唱える聖霊運動 (HSM) を招いた。UPDAとHSMの敗北により兵力は神の抵抗軍 (LRA) へと引継がれ、LRAの被害はアチョリ自らに及んだ。 ムセベニは評判を回復するために人権の尊重を訴えたが、NRM も少年兵の使用 を非難された。NRA は公正さを認められるよう努めたがすぐに失墜した。ある村人は「ムセベニの部下が最初に来たとき、よく活動し私たちも彼らを歓迎した、しかし、彼らは人々を逮捕し殺し始めた。」と語った。 1989年6月アムネスティ・インターナショナルは "Uganda, the Human Rights Record 1986–1989" と題したウガンダの人権報告書を発表した。それは NRA の部隊により遂行された数多の人権侵害を報告した。戦闘の最も激しい局面の1つの1988年10月から12月の間に NRA はグルの町とその周りの約10万の住民を強制移住させた。兵士は強制移住の際に家や穀倉を焼き数百人を超法規的に処刑した。しかしながらアミンやオボテ政権の間に行われたような系統的な拷問の報告はほとんどなかった。結論で報告書は NRM 政権の人権の履行状況は政権獲得後4年間で初期の数ヶ月よりどう見ても悪化している。しかしながら、複数の評論家と観測者が「大量の人権侵害へ逆戻りする傾向がある」として、「ウガンダは悪い政府の手で苦しめられるよう運命づけられている」と言うのは事実ではない。 としていくらかの希望を伝えた。
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