河東一乱と河越夜戦
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天文10年10月、氏綱の死を知った山内上杉家・扇谷上杉家は連携して河越・江戸方面への侵攻を行った。しかし、氏康はこれを撃退して反対に武蔵北部の上杉領を攻撃している。しかし、天文の飢饉の中で、これ以上の攻撃は抑制し、翌天文11年(1542年)に入ると領内の検地を行って課税基準の見直しを行っている。しかし、同年に発生した真里谷家の内紛をきっかけに里見義堯との衝突が本格化し、一方で天文13年(1544年)正月には武田晴信(後の信玄)との和睦に踏み切るなど、対外的な情勢は複雑化することになった。 天文14年(1545年)7月、駿河の今川義元からの和睦の提案を受けるが、合意に至らなかった。そこで、義元は関東管領・山内上杉憲政や扇谷上杉朝定(朝興の子)等と連携し、氏康に対し挙兵した。義元は、北条氏綱に奪われていた東駿河を奪還すべく攻勢をかけた。これを第2次河東一乱という。氏康は駿河に急行するものの、北条勢は武田軍の援軍を受けた今川軍に押され、吉原城・長久保城を自落させ、婚姻関係のある従属国衆の葛山氏が今川方に離反するなど、状況は不利であった。その在陣中、関東では山内・扇谷の両上杉氏が大軍を擁して義弟・北条綱成が守る河越城を包囲したという知らせが届き、東西から挟み撃ちにあった氏康は絶体絶命の危機に陥った。この窮状の中まずは片方を収めるべく、氏康は武田晴信の斡旋により、義元との和睦を模索。東駿河の河東地域を義元に割譲することで和睦する。後の武田氏を交えた甲相駿三国同盟の締結までは緊張が続いたが、その後は同盟関係を堅持し、駿河侵出はなかった。 関東では義元と手を結び態勢を立て直した両上杉氏に加え、氏康の義兄弟(妹婿)であり、これまでは北条と協調してきた古河公方・足利晴氏までもが連合軍と密約を結び、河越城の包囲に加わった。およそ8万の連合軍に包囲された河越城は約半年に渡って籠城戦に耐えるものの、今川との戦いを収め関東に転戦した氏康の北条本軍は1万未満しかなく、圧倒的に劣勢だった。氏康は両上杉・足利陣に「これまで奪った領土はお返しする」との手紙を送り、長期の対陣で油断を誘った。そして翌天文15年(1546年)、氏康は城内の綱成と連携して、連合軍に対して夜襲をかける。この夜襲で上杉朝定は戦死し、扇谷上杉氏は滅亡した。また、上杉憲政は上野国平井に、足利晴氏は下総国に遁走した(河越夜戦)。「河越城の戦い」の内容に関しては、同時代史料が乏しく、研究の余地の大きい合戦ではあるものの、この戦いで北条氏側が勝利したことにより、氏康は関東における抗争の主導権を確保する。 しかし、今度は上杉氏との戦いで手一杯とみた里見氏が千葉氏を攻撃し始め、氏康が当時の里見氏の拠点であった佐貫城を攻撃すると、今度は扇谷上杉氏の遺臣である太田資正が松山城・岩付城を奪還した。氏康が太田資正と上田朝直を離間させて両者を降伏させたのは天文17年(1548年)正月のことであり、同年から翌年にかけて国峰小幡家・花園藤田家・深谷上杉家などを次々と山内上杉氏から離反させて北条氏の傘下に置くことに成功した。
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