河東一乱と河越夜戦とは? わかりやすく解説

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河東一乱と河越夜戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 08:10 UTC 版)

北条氏康」の記事における「河東一乱と河越夜戦」の解説

天文10年10月、氏綱の死を知った山内上杉家扇谷上杉家連携して河越江戸方面への侵攻行った。しかし、氏康はこれを撃退して反対に武蔵北部の上領を攻撃している。しかし、天文の飢饉の中で、これ以上攻撃抑制し、翌天文11年1542年)に入ると領内検地行って課税基準見直し行っている。しかし、同年発生した真里谷家の内紛きっかけ里見義堯との衝突本格化し、一方で天文13年1544年正月には武田晴信(後の信玄)との和睦踏み切るなど、対外的な情勢複雑化することになった天文14年1545年7月駿河今川義元からの和睦提案を受けるが、合意に至らなかった。そこで、義元関東管領山内上杉憲政扇谷上杉朝定(朝興の子)等と連携し、氏康に対し挙兵した。義元は、北条氏綱奪われていた東駿河奪還すべく攻勢をかけた。これを第2次河東一乱という。氏康は駿河急行するものの、北条勢は武田軍援軍受けた今川軍押され吉原城・長久保城を自落させ、婚姻関係のある従属国衆の葛山氏今川方に離反するなど、状況は不利であった。その在陣中関東では山内扇谷の両上杉氏大軍擁して義弟北条綱成が守る河越城包囲したという知らせ届き東西から挟み撃ちにあった氏康は絶体絶命危機陥った。この窮状の中まずは片方収めるべく、氏康は武田晴信斡旋により、義元との和睦模索。東駿河河東地域義元割譲することで和睦する。後の武田氏交えた甲相駿三国同盟締結まで緊張続いたが、その後同盟関係堅持し、駿河侵出はなかった。 関東では義元手を結び態勢立て直した上杉氏加え、氏康の義兄弟妹婿)であり、これまで北条協調してきた古河公方足利晴氏までもが連合軍密約を結び、河越城包囲加わった。およそ8連合軍包囲され河越城は約半年渡って籠城戦耐えるものの、今川との戦い収め関東転戦した氏康の北条本軍は1万未満しかなく、圧倒的に劣勢だった。氏康は両上杉足利陣に「これまで奪った領土お返しする」との手紙を送り長期対陣油断誘った。そして翌天文15年1546年)、氏康は城内の綱成と連携して連合軍に対して夜襲をかける。この夜襲上杉朝定戦死し扇谷上杉氏滅亡したまた、上杉憲政上野国平井に、足利晴氏下総国遁走した(河越夜戦)。「河越城の戦い」の内容に関しては、同時代史料乏しく研究余地大き合戦ではあるものの、この戦いで北条氏側が勝利したことにより、氏康は関東における抗争主導権確保する。 しかし、今度上杉氏との戦いで手一杯とみた里見氏千葉氏攻撃し始め、氏康が当時里見氏拠点であった佐貫城攻撃すると、今度扇谷上杉氏遺臣である太田資正松山城岩付城奪還した。氏康が太田資正上田朝直離間させて両者降伏させたのは天文17年1548年正月のことであり、同年から翌年にかけて国峰小幡家・花園藤田家深谷上杉家などを次々と山内上杉氏から離反させて北条氏傘下に置くことに成功した

※この「河東一乱と河越夜戦」の解説は、「北条氏康」の解説の一部です。
「河東一乱と河越夜戦」を含む「北条氏康」の記事については、「北条氏康」の概要を参照ください。

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