河東峠の戦い(第29連隊第3大隊)
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「釜山橋頭堡の戦い」の記事における「河東峠の戦い(第29連隊第3大隊)」の解説
詳細は「河東峠の戦い(英語版)」を参照 アメリカ軍第29連隊(英語版)は沖縄で兵員未充足の状態にあったが、7月12日に「6週間の訓練を受けた後に」朝鮮半島に移動する予定の命令を受けた。しかし第8軍の援軍要請により実戦投入の前に訓練を行う時間の余裕はなかった。 7月20日にアメリカ本土から到着した新兵400名で第1・第3大隊を定員(883名)に充足させると、7月21日には「釜山で10日間の訓練を行う」予定で第1・第3大隊のみの編成で那覇を出発した。7月24日に釜山に到着したが、受領した火器の調整点検などを3日間の訓練期間に行うはずが、直ちに晋州に前進し第24歩兵師団の指揮下に入る命令を受け、点検も行わずに列車で出発した。7月25日の午後に晋州に到着すると、第19連隊(英語版)(ムーア大佐)の指揮の下、第1大隊(ウィルソン中佐)は安義地区の防御を、第3大隊(モット中佐)は北朝鮮軍の接近経路の集約点になっている河東(ハドン)の奪取を命ぜられた。 河東攻撃は晋州防衛のための時間稼ぎのためであった。第3大隊長モット中佐は、砲兵の援護もなく兵員も訓練不足のため、進撃せず防御戦を行う意見だったがこれは容れられなかった。第3大隊は7月26日の午前0時30分に晋州を出発したが、中途に北朝鮮軍の大部隊が存在する情報を得た。副大隊長のライブル少佐が再度の防御戦の具申を行ったが、ムーア大佐には認められなかった。 第3大隊は行軍中に戦術航空統制班が追加され、7月27日に空軍が行う河東爆撃の後に攻撃を開始することとなった。しかし行軍中に北朝鮮第6師団(方虎山少将)の待ち伏せ攻撃にあった。北朝鮮第6師団は河東付近で兵力を二分し、一部を河東へ、主力を河東峠に配置してアメリカ軍を待ち伏せていた。高地からの待ち伏せ攻撃による最初の一撃で大隊本部の過半の将校が負傷した。 大隊には朝鮮戦争開戦時の韓国陸軍参謀総長で6月30日に解任された蔡秉徳少将が通訳兼ガイドとして同行していたが、蔡少将もこのとき戦死した。これは朝鮮戦争初期の国連軍将官の被害、ディーン少将に続く2人目の被害であった。 戦術航空統制班の無線車や大隊の指揮車も破壊され、指揮官を失った部隊は潰走した。
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