歴史主義の危機と克服
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フリードリヒ・ニーチェは、先駆的な論文「生に対する歴史の功罪」(1874年) において、歴史主義の克服を初めて説いた人物である。彼にとって歴史学は純粋科学たる数学とはその本質が異なり、歴史学が科学としての客観性を偽証するときに、すべての価値はその無限の歴史の流れの中に投げ出されて破壊され、永遠の絶望と懐疑をもたらすが故に、歴史学は学問であることを止め、生に従属されなければならないとした。そこでは、自然主義に立つ科学と生がそれぞれ自律した領域であるべきであるという問題意識が、当時目覚ましい発展を遂げつつあった歴史学を批判する形で示されたのである。 エルンスト・トレルチは、自著『歴史主義とその諸問題』(1922年)、『歴史主義とその克服』(1924年)において、歴史主義は、自然主義と並び立つ近代の偉大な学問的二方法であるとしつつも、他方で、歴史相対主義をキリスト教と西洋文化の一体性を踏まえての文化総合によって克服しようとした。 パウル・ティリッヒは、『カイロスとロゴス』(1926年)において、歴史的プロセスにおいて形成される認識行為が常に未来に開かれており、同時に認識がその歴史性によって規定されているという意味で、歴史主義を評価し、時代時代に規定された真理の認識が相対的であることを認める。他方で、ティリッヒは、真理の概念を従来考えられてきた絶対的で客観的なものととらえず、真理自体が動的なものであり、その現実化の歴史的運命に縛られていること、認識主観の歴史的構成(運命における原決断)と理念の歴史的運命とが一致するときに、動的真理は認識され得るとして、歴史プロセスをあたかも超越して絶対的真理を完全に自己化したかのように主張する絶対主義と、そのような絶対主義と真理の認識一般を断念する歴史相対主義との両方を批判して発展させ、これをプロテスタント信仰と矛盾することのない「信仰的相対主義」(dergläubige Relativismus)と呼んだ。 新カント主義のヴィンデルバントは、ディルタイがその領域によって自然科学と精神科学を区別したことを批判した上で、自然科学は「法則定立的」(nomothetisch)であるのに対し、精神科学は「個性記述的」(idiographisch)であると特徴づけ、自然科学と精神科学は「領域による違い」ではなく、「方法による違い」によって区別されるとして、精神科学に自然科学と異なる学問としての独自性を主張したのであったが、これは新カント主義に立たない多くの歴史学の理論家にも取り上げられるほどの影響力を持った。新カント主義のハインリヒ・リッカートはさらに、ヴィンデルバントを承継しつつも、精神科学に代わる概念として「文化科学」という概念を立て、これを体系化しただけでなく、相対主義を克服した価値哲学の構想を立てた。新カント主義は、このように、科学的な実験方法が哲学にも導入されて徐々に心理学が独自の学問として成立した時代、「哲学のアイデンティティの危機」が叫ばれた時代に、自然科学主義との対抗で精神と文化の価値を復権する試みとして主張されたのである。歴史学と同様の史料批判に基づく哲学の研究は、研究成果がわかりやすいという特徴を有していたこともあり、その後の講壇哲学の方向性を基礎付けた。
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