武石典史の論考
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武石典史は陸士17期(明治38年3月卒業)から陸士55期(昭和16年7月卒業)について陸幼出身者(陸幼組)と中学校出身者(中学組)の出身家庭を調査し、 陸幼組は「近代セクター(武官・官公吏(文官)・教員・警察官・会社員・医師・弁護士・政治家など)」の占有率が高く、当時のエリートの代表である高等学校生・帝大生をも上回っていた。 中学組は「農業セクター」の占有率が高い。 陸幼組の出身家庭の多くを占める「近代セクター」の中でも武官の占める割合が常に高く、陸幼生徒の2割から3割が武官の子息で占められていた。 という3点を指摘している。 武石典史は、 父兄の属する経済階層で比較すると、陸幼組が中学組を上回っていた。 出身地(出身中学校所在地)で比較すると、陸幼組は東京府出身者が最も多かったと見られるのに対し、中学組の出身地は全国に分散していた。 と述べている。 陸軍将校の進級・補職に対しては、陸士の卒業成績、陸大の卒業成績が決定的な影響を及ぼしていたとされる。陸士の卒業成績では、上位と下位に陸幼組が多く、その中間に中学組が多いとされてきた。 武石典史は、陸士15期(明治36年11月卒業)から陸士46期(昭和9年6月卒業)について陸士卒業序列を調査し 陸幼組が上中位層に偏りを見せる。 中学組が中下位層に偏りを見せる。 成績上位層の大半を陸幼組が占める。 という3点を指摘し、下記のように述べている。 いずれにせよ,集団としての陸幼組と中学組とでは,少尉任官という陸軍将校と しての第一歩の時点でスタートラインがかなり異なっていた。 — 武石典史、 武石典史は、陸士15期から陸士44期(昭和7年7月卒業)の陸大卒業者について、陸士卒業成績別に「少尉任官から陸大に入校するまでの平均所要年数」と「陸大優等卒業者(恩賜組)の人数」を調査し、 陸士卒業成績が上位であるほど、陸大卒業者の比率が高い。 陸大卒業者の実数と輩出率の双方で、陸幼組が中学組を上回る。 陸大恩賜組(卒業席次上位6名)の輩出数では陸幼組が中学組を「2倍から3倍」と圧倒しており、首席・次席・三席の上位3名に限ると、陸幼組68名に対し中学組は10名とさらに差が広がる。 少尉任官から陸大入校までの所要年数を検討すると、陸大入試において、陸幼組が中学組より優遇されていたとは認めがたい。 陸大を受験するには所属長(連隊長など)の推薦が必要であり、所属長が推薦するのは陸士卒業成績上位の者であるのが自然であるため、陸士卒業成績が上位であることが多い陸幼組が有利になったことはあろう。 という5点を指摘している。 陸大に合格するには3年程度をかけての受験勉強が必要とされていた。陸大受験資格を有したのは「所属長の推薦を受けた、陸士を卒業して少尉任官後に隊附(部隊勤務)2年以上の中尉・少尉」であったが、中尉・少尉の期間に陸大の受験勉強をするためには、所属長が便宜を図ってくれることが重要であり、かつ優秀な部下が陸大に入校することは所属長にとって喜ばしいことであった。 所属長から陸大入校を期待された中尉・少尉に対しては 連隊旗手(連隊本部での勤務となるため、余暇が多い)に選ぶこと。 陸士予科の区隊長(余暇が多い)に派遣すること。 陸大入試の日程上(4月に師団所在地で初審、8月に初審合格通知、12月に東京の陸大で再審・合否決定)、受験勉強の追い込みの時期に行われる秋季演習(10月末から11月)への参加を免除し、さらに11月半ばから休暇を与えて上京させて勉強に専念させること。 などが行われた。 陸士36期(大正13年7月卒業)の塚本誠は、中央幼年学校予科(東京地方幼年学校)を経て、大正9年に中央幼年学校本科(同年に陸士予科に改称)に入校したが、下記のように述べている。 区隊長の多くは余暇を求めて陸軍大学校受験の勉強をしていたが、…… — 塚本誠、 武石典史は、中央三官衙(陸軍省・参謀本部・教育総監部)の課長級以上に補職された者(陸士15期から陸士39期(昭和2年7月卒業))について、陸大卒業席次、陸幼組・中学組の別、陸士卒業席次を調査し、 陸幼組(217名)に対し、中学組(68名)は約3分の1に留まる。 陸士と陸大の双方で成績上位であるほど、三官衙の課長に就任できる可能性が高かった。 陸士の成績が上位であれば、陸大卒の履歴を有さない「無天組」でも中央三官衙の課長への道、稀な例ではあるが局長への道が開かれていた。 という3点を指摘している。さらに、陸士優等卒業・陸大優等卒業であれば90%が中将以上に至ったのに対し、陸大優等卒業のみの場合は中将以上に至ったのは76%に留まり、明確な差が認められるという今西英造の見解を紹介している。 武石典史は、帝国陸軍において陸士の卒業成績・陸大の卒業成績が進級と補職に大きく影響したため、陸士・陸大の双方において成績上位者を多く輩出している陸幼組が、中学組と比較して、より高い階級に至って長く現役に留まり、より重要なポストに補任される結果となったものである、と結論している。
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