武石家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/20 10:00 UTC 版)
武石家の家系図を記したという雁皮は関東大震災で焼失したという。 1578年の国府台合戦で市川市にあった城が落城した際、白猿に導かれた兄弟が南無谷に落ち延びたという。兄は鹿野山へ、弟は下打墨村塚廻に住み、武石家を名乗ったと言われている。千葉常胤の三男で里見氏の家臣である武石胤盛の流れを汲む可能性が指摘されている。 武石家は代々下打墨村塚廻に住んでいた。武石家が檀家の鴨川市貝渚永泉寺の過去帳によると、1680年に亡くなった庄左衛門が最古である。庄左衛門から6代目が伊八である。武石家の屋号は萬右衛門だったため、伊八の龍は「萬内の龍」、伊八は「彫物師萬内」と呼ばれていた。
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