正本堂の位置づけをめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 02:52 UTC 版)
「正本堂 (大石寺)」の記事における「正本堂の位置づけをめぐって」の解説
日蓮正宗の宗旨における『三大秘法』には『本門の戒壇』『本門の題目』『本門の本尊』があり、『本門の題目は<本門の本尊に南無妙法蓮華経を唱えること>』、『本門の本尊は大石寺に安置されている<一大秘法の弘安2年の大御本尊>』『本門の戒壇は本門の本尊が御安置されている本堂であり、広宣流布の暁には大石寺が本門寺と名前を変えて、<本門寺(ほんもん-じ)の戒壇堂>となる』と定まっている[出典無効]。 また、『本門の本尊』所在の場所がいついかなる時でも<本門事の戒壇>であることが定められている。 詳細は「三大秘法#日蓮正宗」を参照 正本堂の建設は1964年(昭和39年)の建立寄進打ち出しから、1972年(昭和47年)の落慶まで創価学会の主導で進んだ。学会は会長の池田大作が正本堂を「宗祖日蓮大聖人の御遺命の戒壇(三大秘宝抄)」だと見なし、宗門側にその定義の受け入れを求めたが、宗門トップの法主66世細井日達(大石寺内の堂宇の管理責任者)は訓諭で「三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇(=正本堂は広布途上における殿堂=事の戒壇常在義と、未来広布の義が円融一体となって本門戒壇に備わる)」と意義づけた。正本堂の正当な管理者たる日蓮正宗のトップによるこの裁定を創価学会側が渋々受け入れるしかなかったことが、後の創価学会破門処分の一因となった。 詳細は「創価学会#日蓮正宗との対立・決別」を参照 正本堂建立前の1970年(昭和45年)には創価学会の「言論出版妨害事件」が表面化し、それを切っ掛けに公明党を含めた「政教分離」に関わる批判が巻き起こる。それに関連し「日本の広宣流布を達成した暁の『本門寺の戒壇』とは国家が直接関わる、憲法の政教分離原則に違反した国立戒壇となるのでは」という批判が起こった。 これに対して、日達法主は「国立戒壇とは明治時代に出来た概念で、国威発揚を国是とする世相の中で便宜的に仮に使用したが、日蓮正宗の教義とは本来関係が無いことなので、誤解を招いて布教の妨げとならぬよう、今後は使用しない」との見解を表明し、事態の収束を図った。 「政教分離原則#宗教団体の政治参加」および「言論出版妨害事件#宗教活動に関して」も参照 これに対して当時、一信徒団体だった妙信講(後の冨士大石寺顕正会)は、1965年(昭和40年)当初には広宣流布の時来りとして、「正本堂」建立基金を講員に募るなど協力的な態度を取っていたが、1970年頃になると一転、「日本の広宣流布は未だ達成されていない。広宣流布の暁に建立される本門事の戒壇は、あくまで国家が建てる国立の戒壇でなければならず、その建立の場所は天母山(あんもやま)である」と独自の主張を展開して学会と宗門を批判した。これが伏線となり、正本堂が完成した1972年秋には落慶法要阻止を画策。学会との抗争、講中解散処分という形での破門へと繋がっていった。 詳細は「国立戒壇#冨士大石寺顕正会」および「創価学会#冨士大石寺顕正会との関係」を参照 「和泉覚#創価学会本部襲撃事件」も参照
※この「正本堂の位置づけをめぐって」の解説は、「正本堂 (大石寺)」の解説の一部です。
「正本堂の位置づけをめぐって」を含む「正本堂 (大石寺)」の記事については、「正本堂 (大石寺)」の概要を参照ください。
- 正本堂の位置づけをめぐってのページへのリンク