創価学会本部襲撃事件
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1972年頃から、大石寺の正本堂の建立を巡って国立戒壇に対する考え方の違いをめぐって教義対立していた創価学会と妙信講(現在の冨士大石寺顕正会)の間で、和泉覚は創価学会理事長として、多忙を極める池田大作(会長)に代わり創価学会側の最前線に立っていた。1974年(昭和49年)8月12日に妙信講(現在の冨士大石寺顕正会)は日蓮正宗から講中解散処分を受けた。1974年(昭和49年)10月4日に妙信講(現在の冨士大石寺顕正会)信者約70名が東京都新宿区信濃町にある創価学会本部(創価文化会館)に街宣車で突入し、会館警備を担当していた創価学会の牙城会との乱闘騒ぎになった。創価学会側は警察の機動隊に出動要請して、妙信講(現在の冨士大石寺顕正会)12名が創価学会敷地内に対する不法侵入の容疑で逮捕された。創価学会の和泉理事長は緊急声明を出し、その中で妙信講(現在の富士大石寺顕正会)を「信仰人にあるまじき行為を働いた狂信的過激派」と非難する。その後、1974年10月29日に和泉覚は創価学会理事長を辞任し、後任の理事長に北条浩が就任する。一方、妙信講理事長の浅井昭衛(現在は冨士大石寺顕正会会長)は父親で当時、妙信講講頭だった浅井甚兵衛や事件に関わった妙信講の青年部員らとともに、1974年11月4日付けで日蓮正宗から信徒除名処分となり、日蓮正宗と完全に袂を分かった。
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