柔道の称号
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武徳会においては、柔道の称号が定められていた。講道館における高段位の柔道家も、講道館と武徳会との両組織に並列して所属しており、柔道段位と柔道称号を並列して取得していた。 最初(1903年[明治36年]5月8日)に柔術範士の称号を受けたのは、楊心流・千葉の戸塚英美、四天流・熊本の星野九門の両氏で、次いで嘉納治五郎が(1905年[明治38年]5月)範士の称号を受けている。次いで(1909年[明治42年]6月)、竹内流・熊本の矢野広次、扱心流・熊本の江口弥三、起倒流・岡山の野田権三郎、関口流・和歌山の関口柔心に範士号が授けられた。 嘉納治五郎はそれまでも「武徳会柔術試合審判規定」(1899年)、「武徳会柔術形制定委員会」(1906年)において諸流派の委員をまとめる委員長を務めていた。同様に、称号制定の当初から武徳会全武術の最高位の範士号・教士号の審査を担当する選考委員3名のうちに入っており(共に担当した委員は北垣国道、渡辺昇)、嘉納自身が範士号を授与されたのも他の授与者と比較して40代という若さでであった。また、1914年12月に武術詮衡委員が「柔道」「剣道」「居合」「弓術」「槍術」の各武術毎の委員に委嘱され選考されるようになった際にも、嘉納は全部門委員を統括する委員会委員長に委嘱されている。 1914年、「範士」「教士」の最上位称号には、それまでの「柔術」「剣術」の表記に代わって特別に「柔道」「剣道」の名称が使用され明文化された。武徳会において「剣道」「柔道」を範士・教士のみに特別に使用したのは、称号授与者が技術と人格を兼ね備えた人物であり、剣術・柔術はそれを目標とすべきであるということを明示するためと推定される。 また、1919年(大正8年)に武徳会においてそれまでの各「武術」の名称を「武道」と改称し「柔術」部門も「柔道」部門に改称し統一したように、各諸流派柔術家は公的に柔道家となり活動していくことになる。 1917年(大正6年)、武徳会においてもそれまで講道館が使用していた段位制が導入される。その際に武徳会で発行可能な柔道(柔術)の段位は四段までとされ、五段以上の高段位を取得するには講道館から授与されるものとなっていた。そのため、武徳会においては講道館の柔道(柔術)の五段以上の高段位と同等のものとして柔道称号を使用することとなる。その後、武徳会で他武道においても段位性を採用したことで講道館とは別に独自の柔道高段位も発行するようになっていくが、そのことで講道館と武徳会で軋轢も生まれることとなる。 柔道各称号の授与条件は次のものとなっていた。(1934年改訂「武道家表彰例」) 範士 教士の称号を受け、その後7年以上を経過し、または年齢60歳以上に達したること。 徳操高潔、技能円熟、特に斯道の模範たる事。 武道に関し功労ある事。 教士 錬士の称号を受有する事。 五段以上たること 操行堅実武道に関し相当の識見を有する事。 錬士 : 武徳祭大演武会に出演し審判員会議の選抜に依りて試験を受け合格したる事。 年表 1895年(明治28年) 大日本武徳会発足 大演武会で優れたものに精錬証の授与。 1902年(明治35年) 武術優遇令施行。 1903年(明治36年) 戸塚英美(戸塚派揚心流・千葉県)、星野九門(四天流・熊本県) 柔術範士授与。 1905年(明治38年) 嘉納治五郎(講道館・東京都) 柔術範士授与。 1914年(大正3年) 範士・教士の称号において「剣術」を「剣道」、「柔術」を「柔道」と表記・明文化する。 1917年(大正6年) 大日本武徳会において講道館に倣い段位制を導入。 1918年(大正7年) 「武術優遇令」を「武道家表彰例」に改称。 1919年(大正8年) 大日本武徳会においてそれまでの各「武術」の名称を「武道」と改称し統一する。「柔術」部門は「柔道」部門に改称され統一される。 1934年(昭和9年) 「武道家表彰例」改訂。「精錬証」授与者を「錬士」の称号に改称する。 1946年(昭和21年) 日本の敗戦に伴い、大日本武徳会 解散。 戦後、武徳会はGHQにより解散を余儀なくされ約1300人ものの人物が公職追放される。武道禁止令を経て柔道は講道館柔道であるとして武徳会と線引きをし、称号制度も継続採用しなかった。
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