柔道より相撲
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1968年6月8日に群馬県群馬郡箕郷町(現:高崎市箕郷町)で生まれる。箕郷町立箕郷中学校では柔道部で活躍していたが、相撲大会にも駆り出されて蔵前国技館で行われた全国大会にも出場した。その実績はロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲得した山下泰裕からスカウトされるほどだった。当初は高校進学が決まっていたが、全国大会を観戦に来ていた佐渡ヶ嶽からサインをもらった際に恵まれた体格を見出され、父親から「柔道ではメシが食えないから相撲で稼いでこい」、佐渡ヶ嶽から「相撲に来れば強いヤツとたくさん戦えるぞ。柔道なんて目じゃねえよ」と言われ、佐渡ヶ嶽のセリフをきっかけに大相撲へ進むことを決意、1984年3月場所で「琴松澤」の四股名で初土俵を踏んだ。同期には共に幕内で活躍する湊富士、大至、旭豪山がいる。入門当時は当時の新弟子検査の基準ギリギリの175cm、80kgの体格であった。 佐渡ヶ嶽部屋での生活が始まって最初の朝、4時に部屋の者にいきなり鼻を殴られ、起きると鼻血が流れた。稽古場では兄弟子も師匠や部屋頭からスコップ、バットによるかわいがりを受け、稽古場にあるテープが巻かれた竹箒500本のうち、琴松澤を殴って壊れる分だけでも一日に5〜6本が消費された。足の裏の皮や爪も剥がれ、毎日足は血だらけだったというが、このようなしごきを受けたのは稽古初日に稽古場で関取の顔を張ったためで、そのような鼻っ柱の強さから自然に目を付けられていたためだった。それでも琴松澤の家は貧乏で、何としても親孝行したいという強い想いからかわいがりには必死に耐え、ちゃんこにおいても当時は力士とはいえ褌担ぎとなれば好きなだけ食べられる時代ではなかったため、具の欠片だけが残ったちゃんこのスープとポン酢で丼飯を12〜13杯を食べた。佐渡ヶ嶽部屋は70人ほどが在籍する大部屋だが、それらの皿洗いや家事などを同期入門の力士と二人だけでこなしていたために昼寝する時間も無く、稽古が足らない分は夜間に屋上へ行き、ダンベルを持って鍛えた。そんな新弟子時代の自身に対する扱いに関して、2018年の週刊誌の記事では「大事にされていたらダメな力士だったんだと思いますよ。褒められると必ず負ける。師匠(佐渡ヶ嶽)と揉めてる時は優勝しちゃったりしてね。だからしごかれた兄弟子や、師匠にも、本当に感謝してます」と振り返っている。
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