翔鳳丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:51 UTC 版)
翔鳳丸(しょうほうまる)は、鉄道省青函航路で運航された車載客船で、同型船に飛鸞丸(ひらんまる)・津軽丸(つがるまる)(初代)・松前丸(まつまえまる)(初代)があり、これらを含めた4隻を翔鳳丸型と呼び、本船はその第1船であった。日本で最初の車載客船で、後に建造される車載客船・車両渡船の原型となった。
注釈
- ^ 帝国鉄道庁は1908年12月5日鉄道院へ改組:日本国有鉄道北海道総局 1976, p. 502, 上巻
- ^ 1916年3月解傭:青函船舶鉄道管理局 (1970, p. 55)
- ^ 1916年3月解傭 1917年4月再傭船 1919年3月解傭:青函船舶鉄道管理局 (1970, p. 55)
- ^ a b ワムは標準的な15トン積み有蓋貨車で、1917年製造初年のワム3500は積載重量15トン、自重8~9トン、連結面間長7.83mで、車両渡船・車載客船にとっては限られた長さの軌道に何両積めるかが問題で、貨車の重量よりも長さ(連結面間長)が重要であった。ちなみに1960年製造初年のワム60000では積載重量15トン、自重9.3~9.7トン、連結面間長7.85mであった[11]。
- ^ 鉄道院は1920年5月15日鉄道省へ改組:日本国有鉄道北海道総局 1976, p. 381, 上巻
- ^ ザスニッツ港、トレレボリ港では当時、通常は補助汽船不使用:山本 (1960, p. 108, 109)
- ^ 茂浦丸、七重丸、尾花丸、洛東丸:青函船舶鉄道管理局 (1970, p. 307)
- ^ 大型船として世界で最初に減速歯車付タービンを採用したのはイギリスのパーソンズ・マリン・タービン会社が1909年改造した自社実験船Vespasian(排水量4,350トン)。日本では1913年三菱長崎建造の東洋汽船南米航路貨物船安洋丸(9,534総トン)。:日本舶用機関史編集委員会 (1993, p. 10, 11, 28巻1号)
- ^ 通常運航時接岸する舷(青函では全船左舷、宇高では紫雲丸型のみ右舷、第三宇高丸以降は左舷)から順に番線を付与するこの方式が青函、宇高両航路で最後まで続けられた[43]。
- ^ 4方コックは、コック本体には下面に1個、周囲の円周面3等分位置に3個のポートがあり、このコックに回転する栓を挿入、この栓にはコック本体下面ポートと、円周面の何れか1つのポートがつながるよう穴があけられており、この栓を回すことで、コック下面ポートにつながるパイプからの接続先として、円周面の3個のポートにつながるパイプ3本の何れか1本を選択できた。吐出方向一定のヒーリングポンプの吸入側と吐出側にそれぞれ1個ずつこの4方コックを設置し、どちらもポンプとつながるパイプをコック下面に接続し、円周面の3本は、吸入側の4方コックでは船底吸入口、左舷タンク、右舷タンクへ接続し、吐出側の4方コックでは舷側吐出口、左舷タンク、右舷タンクへ接続した。ヒーリング操作待機時はポンプ運転状態のまま、船底吸入口→吸入側4方コック→ポンプ→吐出側4方コック→舷側吐出口、として海水を無駄に流した。左舷→右舷の移水では、左舷タンク→吸入側4方コック→ポンプ→吐出側4方コック→右舷タンク、とし、これら切替え時もポンプ運転は継続された。この2個の4方コックの栓の3ポジションの選択の組み合わせで、全てのヒーリング操作ができた。この4方コックの栓の操作はユニバーサルジョイントを介して、回転方向一定の直流100V 2馬力の電動機で、一定方向へ回転させることで行われた。選択できる3ヵ所の停止位置にはリミットスイッチが設けられ、指定の位置まで回転すると停止する仕組みであった。この電動機の制御が後部船橋から遠隔操作で行われ、後部船橋に設置された吸入側4方コック操縦ハンドルには「舷外より」「左舷より」「右舷より」、同じく吐出側4方コック操縦ハンドルには「舷外へ」「左舷へ」「右舷へ」の各ノッチ位置があり、この2つのハンドル操作の組み合わせでヒーリング操作ができた。この仕組みは、技術的に汽動ポンプ自体の遠隔制御が困難であった時代に、技術的に可能であった電動式4方コックの遠隔制御のみで、その目的を達成した最先端技術であった。ヒーリングポンプの発停、ヒーリングパイプの仕切弁、船底吸入口の船底弁、舷側吐出口の船外弁の開閉は全て手動で、これらはヒーリング操作開始前と終了後に機側で操作する必要があった[51]。
- ^ 翔鳳丸:古川 (1988, p. 74)、飛鸞丸:浦賀船渠株式会社 (1957, p. 219)、翔鳳丸 津軽丸(進水時)津軽丸(車両航送開始前)松前丸:北海道新聞社 (1987, pp. 62, 65–67)、松前丸:古川 (1988, p. 75)。
- ^ 函館第1岸壁1951年8月、函館第2岸壁1953年9月、青森第1岸壁1954年7月、青森第2岸壁1952年8月:青函船舶鉄道管理局 (1957, p. 33)
- ^ 函館第1岸壁1953年9月、函館第2岸壁1951年8月、青森第1岸壁1952年8月、青森第2岸壁1954年7月:青函船舶鉄道管理局 (1970, pp. 328–332)
- ^ 2014年5月、保存中の青森第2岸壁可動橋の調査では、銘板に「青森第二岸可動橋改築昭和27年8月竣功 図面番号とく-136 施工者 株式会社横河橋梁製作所」と記載あり、「青函連絡船50年史」の記載と合致。これも1945年頃の第1第2岸壁の名称交換による混乱に起因:『青森第2岸壁可動橋銘板』 2014
- ^ 戦時中完成の青森第3岸壁、函館第3第、4岸壁、および戦後の改修工事後の青森第1、第2岸壁、函館第1、第2岸壁では可動橋への機関車入線可:山本 (1960, p. 238)
- ^ しかし、1926年ごろ撮影の、機関車が可動橋に乗り入れている写真もある:川上 (1968, p. グラフ34, 下巻)。
- ^ 機関車の転属など「特別の場合を除く」と規定されていた[57]。
- ^ 青森、函館とも創設時は岸壁番号は沖側から陸側に向けて付番されていたが、青森では1944年5月に最も沖側に青森第3岸壁が開設された。函館では1944年、有川埠頭に陸側から沖へ向け、1月に有川第1岸壁、11月に有川第2岸壁が順次開設され、1945年5月には、それぞれ函館第3岸壁、函館第4岸壁と改称され、同年6月には函館第1岸壁と函館第2岸壁の名称交換が行われた。青森第1岸壁と青森第2岸壁の名称交換も、青森第3岸壁開設時から、函館での名称変更時までの間に行われたと考えられる[61]。
- ^ 1930年9月27日第2乗降場工事開始、本屋乗降場を第1乗降場と改称:北海道旅客鉄道株式会社函館支社 (2003, p. 34)
- ^ 浦賀船渠元取締役の粕谷勇治氏談として、9月1日は午前8時頃に駆逐艦「早蕨」の進水があり、また「飛鸞丸」を当日午後に第一船渠へ入れるため、入渠していた駆逐艦「早苗」を午前中に船渠から出したりと多忙で、この日の「飛鸞丸」進水の記載はない:浦賀船渠株式会社 (1957, p. 210, 211)
- ^ 9月1日午前中「飛鸞丸」進水と記載されているが、この時期 山本氏は欧米の車両渡船調査のため洋行中で、後年の「車両航送」執筆時何か勘違いされたようだ[99]。
- ^ 2軸1枚舵の連絡船は船速の4倍弱以上の風を真横から受けると“風に切り上がって”風下に回頭できなかった[100]。
- ^ a b c d 1933年1月1日から( )内の符字へ変更:古川 (1988, p. 259)
出典
- ^ a b 青函船舶鉄道管理局 1970, pp. 231–233
- ^ 日本国有鉄道北海道総局 1976, p. 507, 上巻
- ^ a b c 青函船舶鉄道管理局 1970, p. 232
- ^ 古川 1988, p. 33
- ^ a b c d 山本 1960, p. 214
- ^ a b 青函船舶鉄道管理局 1970, p. 55, 56
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1970, p. 222, 223
- ^ 青木栄一「関門鉄道連絡船の歩み」『鉄道ピクトリアル』15巻1号p24 1965
- ^ 古川 1988, p. 46, 47.
- ^ 古川 1988, p. 50 p53.
- ^ 古川 1966, p. 96-98.
- ^ a b 日本国有鉄道 1958, p. 21, 第6篇(船舶)
- ^ a b 青函船舶鉄道管理局 1970, p. 59, 60
- ^ 山本 1960, pp. 24–34.
- ^ 古川 1988, p. 72, 73.
- ^ a b 古川 1966, p. 59
- ^ a b 山本 1960, p. 215
- ^ a b c d e 山本 1960, p. 217
- ^ 古川 1988, p. 74, 75.
- ^ 北海道旅客鉄道株式会社 1988, p. 360.
- ^ a b c d e f 山本 1960, p. 218, 219
- ^ a b c 山本 1960, p. 220
- ^ 泉 1972, p. 12, 上巻.
- ^ 古川 1966, p. 75
- ^ 泉 1972, p. 11, 上巻.
- ^ 日本国有鉄道青函船舶鉄道管理局 1978, p. 96, 97.
- ^ 山本 1960, p. 244.
- ^ 古川 1988, p. 78.
- ^ 向坂昭二「青函航路用新貨物船」『交通技術』30巻1号p78 1975
- ^ 古川 1988, p. 73, 74.
- ^ a b c 山本 1960, p. 224
- ^ a b 古川 1971, p. 23, 続
- ^ 山本 1960, p. 217, 218.
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1970, p. 60.
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1970, p. 87, 88.
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1970, p. 150, 151.
- ^ 日本国有鉄道 1958, p. 23, 第6篇(船舶).
- ^ a b c 青函船舶鉄道管理局 1970, p. 151
- ^ 古川 1988, p. 75.
- ^ 日本舶用機関史編集委員会 1993, p. 12, 28巻1号.
- ^ 山本 1960, p. 219, 231, 234.
- ^ 古川 1988, p. 62-64.
- ^ 山本 1960, p. 220.
- ^ 青函連絡船車両航送取扱手続 第三条(線路の呼称) 2項 線路の呼称 で規定
- ^ 山本 1960, p. 223, 224.
- ^ 古川 1966, pp. 106–113.
- ^ 古川 1988, p. 282、283.
- ^ 山本 1960, p. 222, 225.
- ^ 山本 1960, p. 227, 228.
- ^ 古川 1988, p. 73.
- ^ 泉 1975, pp. 12–15, 中巻.
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1970, p. 152
- ^ a b 古川 1988, p. 274
- ^ 古川達郎「青函連絡船・塗色70年の変遷」『鉄道技術研究所速報』No.78-176昭和53年12月p14 日本国有鉄道鉄道技術研究所1978
- ^ 日本国有鉄道青函船舶鉄道管理局 1978, p. 288.
- ^ 古川 1988, p. 269.
- ^ 山本 1960, p. 225.
- ^ 山本 1960, p. 221, 222.
- ^ 古川 1966, p. 94.
- ^ a b 山本 1960, p. 216
- ^ a b 古川 2008, p. 57-68.
- ^ 『函館驛 写真で綴る100年の歩み』p18 p23 p124 、125 北海道旅客鉄道株式会社函館駅2003
- ^ [1] 函館駅構内大改造p550、551函館市
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1970, p. 36
- ^ 古川 2008, p. 58.
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1970, pp. 314, 315, 319–324, 巻末附表3、4
- ^ 北海道旅客鉄道株式会社 1988, p. 92-96.
- ^ 本田茂「自動連結器一斉取換の背景と実態」『鉄道ピクトリアル』25巻7号p13-16 1975
- ^ 川上 1968, p. 50, 下巻.
- ^ 日本国有鉄道北海道総局 1976, p. 697, 上巻.
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1973, p. 143, 巻末附表p8.
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1957, p. 68.
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1970, p. 134、135
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1957, p. 48.
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1957, p. 49.
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1970, p. 64, 65.
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1957, p. 51.
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1970, p. 235
- ^ a b 青函船舶鉄道管理局 1970, p. 223
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1970, p. 224
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 青函船舶鉄道管理局 1970, p. 196-199
- ^ 日本国有鉄道北海道総局 1976, p. 572, 上巻
- ^ 古川 2008, p. 59-61.
- ^ 鉄道省編纂汽車時間表昭和5年10月号p265、266 p271、272日本旅行協会1930(復刻:時刻表復刻版(戦前・戦中編)日本交通公社1978)
- ^ 鉄道省編纂汽車時間表昭和9年12月号p174 p177 ジャパン・ツーリスト・ビューロー1934(復刻:時刻表復刻版(戦前・戦中編)日本交通公社1978)
- ^ a b c d e f g h 日本国有鉄道北海道総局 1980, p. 205-207, 中巻
- ^ 日本国有鉄道青函船舶鉄道管理局 1978, p. 217.
- ^ 古川 1988, p. 297.
- ^ 坂本 1989, p. 185-187
- ^ 青函連絡船戦災史編集委員会 1995, p. 160
- ^ a b 青函連絡船戦災史編集委員会 1995, p. 80
- ^ 青函連絡船戦災史編集委員会 1995, p. 128
- ^ 青函連絡船戦災史編集委員会 1995, p. 147
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1957, p. 184、185
- ^ 青函連絡船戦災史編集委員会 1995, p. 157-162
- ^ a b 青函船舶鉄道管理局 1957, p. 185
- ^ a b 青函連絡船戦災史編集委員会 1995, p. 322
- ^ a b 浦賀船渠株式会社 1957, p. 219
- ^ 山本 1960, p. 215, 巻末.
- ^ 古川 1966, p. 34.
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1957, p. 176
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1957, p. 174, 175
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1970, p. 461
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1957, p. 175, 176.
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1970, p. 462.
- ^ 北海道旅客鉄道株式会社 1988, p. 140.
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1957, p. 63
- ^ 青函連絡船戦災史編集委員会 1995, p. 122
- ^ 青函連絡船戦災史編集委員会 1995, p. 147-152
- ^ 日本国有鉄道船舶局 1965, p. 29、30
- ^ 青函連絡船戦災史編集委員会 1995, p. 149
- ^ 日本国有鉄道船舶局 1965, p. 22 p30
- ^ 青函連絡船戦災史編集委員会 1995, p. 73
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1957, p. 185、186
- ^ 青函連絡船戦災史編集委員会 1995, p. 142、143
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1957, p. 230
- ^ 青函連絡船戦災史編集委員会 1995, p. 316
- ^ 青函連絡船戦災史編集委員会 1995, p. 89
- ^ 日本国有鉄道船舶局 1965, p. 31
- ^ 青函連絡船戦災史編集委員会 1995, p. 90
- ^ 青函連絡船戦災史編集委員会 1995, p. 110
- ^ 青函連絡船戦災史編集委員会 1995, p. 112、113
- ^ 青函船舶鉄道管理局 1957, p. 186、187
- ^ 日本国有鉄道船舶局 1965, p. 32
- ^ 青函連絡船戦災史編集委員会 1995, p. 100 p111 p126、127 p129
- ^ 青函連絡船戦災史編集委員会 1995, p. 292
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 古川 1988, p. 334, 335
- ^ a b c d 青函船舶鉄道管理局 1970, 巻末附表19
- ^ a b c 山本 1960, 巻末表30
固有名詞の分類
- 翔鳳丸のページへのリンク