東京電力入社後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 02:18 UTC 版)
通商産業省からも内定を貰っていたが、大学の先輩の勧めで東京電力に入社。入社後は各地の原子力発電所の現場作業を転々とし、本店勤務は数えるほどだった。福島第一原子力発電所・福島第二原子力発電所両原発の発電部保守課、ユニット管理課などを経て、福島第一原子力発電所1・2・3・4号ユニット所長を務めた。 最初に配属された勤務先は福島第二原子力発電所2号機の建設事務所であり、上司に武黒一郎がいた。その後、大学生の時に知り合った女性と結婚し3人の子供を授かる。1995年から4年間、電気事業連合会原子力部に課長待遇として出向した。2002年7月には本店の原子力管理部グループマネージャーになった。2007年4月1日付で、本店に原子力技術・品質安全部を改組して新たに設置された原子力設備管理部の部長に就き、その後執行役員兼務となる。 2002年に文部科学省の地震調査研究推進本部が「貞観津波、明治三陸津波、昭和三陸津波のような東日本の太平洋岸を襲う大津波は、今後は三陸沖から福島沖、房総沖にかけて、どこで起きてもおかしくない」という報告をまとめた。その報告を受けて2008年に行われた東京電力の独自調査では、福島第一原子力発電所に想定を大きく超える津波が来る可能性を示す評価結果が得られ、原子力・立地本部の幹部は危険性を指摘した。しかし吉田が部長を務める原子力設備管理部は「そのような津波が来るはずはない」と主張し、上層部も了承したため「現実にはあり得ない」と判断して動かず、建屋や重要機器への浸水を防ぐ策が講じられなかった。このことが東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会により明らかにされている。 ただし、2002年に公益社団法人土木学会が、2006年に内閣府中央防災会議がそれぞれ「福島沖に波源はなく、福島沖と茨城沖を災害対策の検討対象から除外する」という見解を発表したことを受け、吉田は明治三陸沖地震の波源が仮に福島沖にあった場合の津波高を自主試算させ、最大波高15.7mという結果を得る。それを基に土木学会に「福島沖に波源がない」見解と自主試算結果の審議を正式に依頼した。さらに吉田は堆積物調査を行い、貞観地震の際の推定津波高を4mと試算した。このように吉田個人は津波対策を軽視していたわけではない。 また2009年6月にも、経済産業省の公式会議である「総合資源エネルギー調査会 原子力安全・保安部会 耐震・構造設計小委員会 地震・津波、地質・地盤合同ワーキンググループ」内で、産業総合研究所の岡村行信活断層・地震研究センター長は「東電は津波対策として貞観地震を検討すべき」と明言し、想定を格段に厳しく見直すべきだと指摘していた。 2007年の新潟県中越沖地震に対する東京電力の対応に関し、2009年に武黒一郎副社長、武藤栄常務らとともに役員として1か月5パーセントの減給措置となる。2010年6月から執行役員・福島第一原子力発電所所長となる。4度目の福島第一原子力発電所勤務であった。
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