末日聖徒の入植
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 15:47 UTC 版)
「ビーバー島 (ミシガン湖)」の記事における「末日聖徒の入植」の解説
1847年、末日聖徒運動(モルモン教)の指導者の1人であるジェームス・ストラング(英語版)が少数の信徒を引き連れて来島し、彼の名前に因んだセントジェームスという集落を築いた。ストラングは1844年、末日聖徒イエス・キリスト教会の創始者であるジョセフ・スミス・ジュニアが暗殺される5か月前に、スミスから直々にバプテスマを受けていた。 1844年のスミスの死後、教会内では後継者争いが起こった(末日聖徒運動の継承危機(英語版))。ストラングは、スミス暗殺の直後に天使から聖任されたという主張と、暗殺の9日前の消印が押された「任命状」(英語版)を根拠として、正当な指導権を主張した。最終的にモルモン教徒の大半はブリガム・ヤングに導かれてソルトレイクシティに移ったが、それと同様に、ストラングも彼の信徒を批判から守るための土地を必要とした。 「広い水辺に接する土地、そこは多くの木々に覆われ、そのそばには深い入り江が広がっていた」という啓示のもとに、ストラングは1846年に彼の条件に見合う土地を見定めてビーバー島を選んだ。1847年の夏、ストラングと妻のメアリー、約250人の彼の信徒が島に来住して農漁業や製材を営み、その後9年間に島の人口は約900人に達した。島に先住していた人々のほとんどは、ストラング派によって放逐された。 1850年、ストラングは自らの教会の王となることを宣言し、戴冠式を行った。ストラングは州議会議員に立候補し、当時人口の希薄だったミシガン州北部の票を圧倒した。元新聞記者でもあったストラングはThe Northern Islanderという新聞を島で発行したが、これは当時グランドラピッズ以北では唯一の日刊紙であった。 ストラングは一夫多妻制を導入し、批判者を追放するなど神権的な専制を敷いた。マキナック島のアイルランド移民やフランス系カナダ人との漁場争い、さらに「聖別」の教義のもとに行われた漁網や漁船の略奪により、ストラング派は五大湖の海賊の悪名を得るに至った。1851年、連邦政府は官有地での乱伐と郵便物偽造の容疑でストラングとその信徒を拘束し、デトロイトで裁判にかけたが、ストラングの巧みな証言により無罪放免となった。 1855年の選挙でストラングは再び議席を獲得した。マキナック島の代表はビーバー諸島のエメット郡からの切り離しを図り、マニトウ郡(英語版)として独立させたが、これによって島には独自の裁判制度が創設され、却って州の干渉から島の独立性を高める結果をもたらした。本土のパイン川での覇権争いの結果、対岸の新興入植地であったシャルルボアにもモルモン教徒が入植し、町の要職に就くことになった。 1855年、ストラングは女性信徒に対し、膝丈のドレスと足首丈のキャラコパンツを着用するよう命じたが、女性からの反抗も根強かった(ヴィクトリア朝時代の女性は肌を隠すのが常識であった)。教会は抵抗した女性たちの家族に報復措置を行い、多くの離反者を生む結果となった。1856年、ストラングの腹心の部下であったジョージ・ミラーの娘婿、ベッドフォードらにより彼は銃撃され、7月に死亡した。
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