最初の50年: 1910-1960年
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「カーネギー国際平和基金」の記事における「最初の50年: 1910-1960年」の解説
1917年、アメリカが第一次世界大戦に参戦したとき、評議員会は「恒久的な国際平和を推進する最も効果的な手段は、民主主義の最終的な勝利のためにドイツ帝国政府との戦争を遂行することである」と満場一致で決議した。1918年12月、事務局長ジェームズ・ブラウン・スコット(英語版)とジェームズ・T・ショットウェル(英語版)ら国際平和基金事務局の職員4人は、ウッドロウ・ウィルソン大統領とともにパリ講和会議に参加した。 カーネギーは世界各地にカーネギー図書館を建設したことでも知られている。当初、この事業に国際平和基金は関与せず、主に英語圏に設置されていた。第一次世界大戦後、大戦で大きな被害を受けたベルギー、フランス、セルビアの3都市に、国際平和基金が図書館を設置した。また、1918年からはアメリカ国内外の市民が国際的な視野を養うために図書館に国際問題に関する蔵書を寄贈する「インターナショナル・マインド・アルコーブ・プログラム」を開始した。このプログラムは1958年まで実施された。 1923年7月14日、国際平和基金はハーグの平和宮内にハーグ国際法アカデミーを設置した。平和宮は、カーネギーの寄付により常設仲裁裁判所のために建設された建造物である。 1925年、ルートに代わってニコラス・バトラーが理事長に就任した。在任中の1931年、バトラーはノーベル平和賞を受賞した。 1944年11月、国際平和基金はラファエル・レムキン(英語版)の"Axis Rule in Occupied Europe: Laws of Occupation—Analysis of Government—Proposals for Redress"(占領下ヨーロッパにおける枢軸国の支配: 占領法、政府の分析、是正の提案)を出版した。この本で使われたジェノサイドという言葉は、世界中の辞書に掲載されるようになった。国際平和基金の経済・歴史部門のジェームズ・T・ショットウェルは、1945年4月から開かれた、国際連合憲章を制定するためのサンフランシスコ会議においてアメリカ代表団の顧問を務め、国連人権委員会の常設化を推進した。 1945年12月、理事長兼評議員会議長を20年間務めたバトラーが退任した。バトラーは、国際平和基金の発足当初からの評議員で最後の存命の人物だった。ジョン・フォスター・ダレスが後任の評議員会議長に選出され、1952年にドワイト・アイゼンハワー大統領(アイゼンハワーも国際平和基金の評議員だった)により国務長官に任命されるまでその地位にあった。また、1946年にアルジャー・ヒスが後任の理事長に就任したが、アメリカ共産党のスパイであることが判明し、1948年12月に偽証罪で起訴されたため、1949年に退任した。ヒスの後任には、ジェームズ・T・ショットウェルが就いた後、1950年に元国務省・国連職員で歴史学者のジョーゼフ・E・ジョンソンが就任して1971年まで務めた。 1947年、本部をニューヨークの国連本部ビルの近くに移転した。旧本部が置かれたワシントンD.C.のジャクソン・プレイス(英語版)700番地のピーター・パーカー・ハウス(英語版)はワシントン支部となったが、1949年に閉鎖された。
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