最初のバーミンガム・ブル・リング・センター
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「ブル・リング」の記事における「最初のバーミンガム・ブル・リング・センター」の解説
1955年、地域の再開発が提案されたことを受け、店舗が閉店し始めた。計画には新しい道路を建設し、古い建物を取り壊して新しい建造物を建設することが盛り込まれていた。11社がこの新しいブル・リングの建設計画を提出したが、バーミンガム市理事会はジェームズ・A・ロバーツ (Jim Roberts) の代替デザイン案を用いるという、レイン (Laing) の提案に票を投じた。取り壊しは1950年後期に開始され、この際に元あった魚市場の取り壊しも始められた。その後の建設工事は、1961年の夏から行われている。 屋外の市場区域は、1962年6月にオープンとなり、まだ建設中であった新しいブル・リングに150戸の店舗が立ち並んだ。また、翌1963年にはマーケット・ホール跡の解体が開始された。 1964年、新しい「バーミンガム・ブル・リング・センター」の建設工事が、竣工に近付いた。センターは伝統的な野外市場と、屋内のショッピングセンターが入り混じったもので、この屋内のショッピングセンターは、街の中心部に位置するものとしては当時イギリス国内で初の試みであった。センターは1964年5月29日、エディンバラ公フィリップ皇子とアルダーマン・フランク・プライス、ハーバート・マンゾーニ(英語版)らによって開場され、総工費は800万ポンドに上ったと見積もられている。ショッピングセンター部分は23エーカー (9.3ヘクタール) あり、販売部分だけで35万平方フィートの広さを誇った。オープンのすぐ後に、女王エリザベス2世が訪れている。 市場部分はおよそ150店舗あり、その大多数は食品を販売していた。市場は、1967年から1971年にかけて建設された環状道路へ接続する、巨大な道路で分割されていた。また、バーミンガム・ニューストリート駅へ直接行ける通路もあったほか、ムーア・ストリート駅からは簡単に市場の区域へ出ることのできる通路もあった。階層が通常よりも多い車両のための駐車場も設けられており、500台分のスペースがあった。徒歩で行く際には、地下通路網を利用することも可能だった。開発の期間中に、ジャマイカ・ロウとスパイシアル・ストリートは取り壊され、地下層の市場の区画が取って代わった。 この複合施設には全部でおよそ140の店舗単位が35万平方フィートの敷地に位置しており、その他にも19のエスカレーターと40のエレベーター、更には96の大衆用ドアと述べ6マイルに及ぶエアダクトと33マイルに及ぶパイプがあった。また、デザイナーは建物内にくつろげる環境を作り出すため、空調が効き音楽が流れるようデザインした。 ニュー・ストリート駅の近くには、焼夷弾の火災で破壊されたマーケット・ホール跡があった。これは1962年に取り壊されるまで何年も遺棄されていたもので、買い物客達がくつろげるようにデザインされたオープンスペースが特徴の、「マンゾーニ・ガーデンズ」が建てられた。また、訪れた買い物客が市場の区域を分ける道路を経由して入場する際、建物の側面に位置する牛の壁が見えていた。 しかし、1960年代のブル・リング・センターは当初から問題を抱えており、また時代の産物に他ならなかった。オープン当初には、近代化の極みと考えられていたが、ショッピングセンターのレンタル料が高額すぎ、販売業者から敬遠される結果となったのである。また一般の人々も、地下道やしばしば停止するエスカレーターを使用しなくなった。その上、時代の流れにも合わず、その角ばった灰色のコンクリートのデザインや、環状道路内の隣接地区とは危険な地下道経由でしか結ばれておらず、隔離されているといった点から、程なくして1960年代におけるブルータリスト建築の不運な事例であると見なされるようになった。その後も、人々からはますます嫌われるようになり、バーミンガムはショッピングセンターと自動車道路ばかりのコンクリート・ジャングルだ、という通念を生み出す一因となった。
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