最初のドーファン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 14:03 UTC 版)
「シャルル5世 (フランス王)」の記事における「最初のドーファン」の解説
ドーフィネの伯であったアンベール2世は、税を徴収する能力がなく破産寸前であり、唯一の子供であった男子の死後は後継者もいなかったので、当時神聖ローマ帝国領であったドーフィネを売り払うことにした。皇帝も教皇も興味を示さなかったため、フィリップ6世が買い取ることになった。 合意では、将来の国王になるジャン2世の物になるはずであったが、ジャン2世の嫡子であるシャルルがドーファンになった。彼は11歳でしかなかったが、すぐに権威の行使の現場に直面した。彼は高位聖職者ならびにドーフィネの家臣たちの臣従礼(オマージュ)を受け取った。 1350年4月8日、シャルルはタン=レルミタージュで父の従妹ジャンヌ・ド・ブルボンと結婚した。あらかじめ教皇から近親婚の特免状は得ていたが、おそらくシャルル6世の精神異常や、シャルル5世の他の子供の虚弱さはこの近親性に起源があると考えられている。結婚は、ペストによってもたらされた母と祖母の死によって延期されていた。当時ヨーロッパ中で猛威をふるっていたペストの拡散を緩和するために、王侯の集結は限定されており、近親者の間で結婚は執り行われた。 ドーフィネの支配はフランス王国にとって貴重であった。というのもドーフィネは古代から地中海とヨーロッパ北部を結ぶ商業上の大動脈ローヌ川を抑えており、教皇の支配する街であり中世ヨーロッパにおいては、無視することのできない教皇の文書行政の中心地であるアヴィニョンと直接交渉することができたからである。その若年にもかかわらず、シャルルは自分の家臣たちに顔を売ることに専念し、争っている家臣の一族同士の争いを止めさせるために仲裁などをした。彼は実用性のある経験を獲得した。
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