最初のディクタトルシップ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/13 03:02 UTC 版)
「マメルクス・アエミリウス・マメルキヌス」の記事における「最初のディクタトルシップ」の解説
翌紀元前437年、前年の事件を受け執政官が選出され、ウェイイ・フィデナエと戦い勝利したが、損害が大きかったためマメルキヌスが独裁官に選出された。彼は副官に前年の同僚キンキナトゥスを任命し、キンキナトゥスの叔父に当たるバルバトゥスらをレガトゥスとして起用すると、敵をまずアニオ川の向こう側へ押し返した。その後ウェイイ側にウェイイより更に北にあるエトルリアの都市ファレリィの援軍が加わると、両軍は平地で対峙し、アウグルからの合図を待ってローマ側が戦端を開いた (フィデナエの戦い)。 戦いではローマ側が優位であったものの、トルムニウス本人が騎兵を率いて奮闘しローマに激しく抵抗した。しかし、トリブヌス・ミリトゥムの一人アウルス・コルネリウス・コッススが彼を単騎討ち取ると、ローマ軍は敵を壊滅させ、マメルキヌスは凱旋式を挙行し、コッススはスポリア・オピーマの栄誉を得たという。凱旋式のファスティではこの年の記録は欠損してしまっている。
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