最初のチベット入りとは? わかりやすく解説

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最初のチベット入り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 20:47 UTC 版)

矢島保治郎」の記事における「最初のチベット入り」の解説

上海到着した矢島は、東亜同文書院根津一面会した後、南京-漢口-北京-鄭州-西安-漢中と旅を続け9月10日成都到着する矢島はここで、約1年の間、打箭炉(ダルツェンド、現・康定)や重慶との間を往復しながらチベット入国するチャンス探ったというのも当時チベット鎖国政策取っており、特に矢島成都滞在当時は清との間が緊張状態にあったため、この国境超えるのは非常に困難だったからである。矢島以前にも、能海寛寺本婉雅がこの国境抜けようとして失敗している。 1910年明治43年)の秋になって矢島は、打箭炉で、かつて西安滞在していた時に出会ったラマ僧イーヤンと偶然再会するイーヤンチベットへ輸送するキャラバン一員としてラサへ向かうところであった矢島はこのキャラバン隊長交渉しモンゴル人変装して隊の一員に加わることに成功する。この経緯については詳細なことが分かっていないが、浅田晃彦は、矢島ピストル持っていたことから、護衛役として同行許されたのではないか推測している。こうして、1911年明治44年3月4日矢島ラサ到着し河口慧海成田安輝寺本婉雅に次ぐ、チベット入国した4人目日本人となった。なお、それまでチベット入りした3人はいずれインドからのルート入国しており、四川省から入った人間としては矢島日本初ということになる。 ラサには1カ月ほど滞在したが、日本人密入国者であることが発覚しそうになってきたため、チベット南下してシッキム王国現在のインド・シッキム州)を経由しインドへと抜けた。そしてカルカッタから船員として貨物船乗り込み1912年明治45年3月日本に一旦帰国する帰国した矢島力行会を訪ね再度チベット赴くための資金援助希望するとはいえ力行会は会の存続自体が危ういほど資金窮しており、ここでその資金引き受けたのは川島浪速であった川島満州モンゴル独立運動行なっていた人物であるが、チベット最終的に独立させたい考えており、その計画一環として矢島チベット情報収集依頼する。こうして、川島から資金の提供と情報収集の命を受けた矢島は、日本滞在わずか2日で再び船に乗りインド向かった

※この「最初のチベット入り」の解説は、「矢島保治郎」の解説の一部です。
「最初のチベット入り」を含む「矢島保治郎」の記事については、「矢島保治郎」の概要を参照ください。

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