最初で最後の飛行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 02:57 UTC 版)
「H-4 (航空機)」の記事における「最初で最後の飛行」の解説
1947年11月2日、ハーキュリーズの滑水テストを行うことになった。操縦はヒューズが担当し、副操縦士はパイロットでもある油圧技術者が担当した。エンジンのチェックのために各エンジンに1人ずつ配置した上、キャビン後部や垂直尾翼にも監視要員を配置したため、乗員はヒューズを含めて18名となった。さらに、航空局・プラット&ホイットニーからも2名、ヒューズ社の支配人とカメラマン、さらに報道関係者も搭乗した。この時にハーキュリーズに乗ったのは全部で32名である。ロングビーチ湾の岸には、ハーキュリーズの動く姿を見るために多くの人が訪れた。 1回目の滑水テストでは、速度を時速40マイルまで上昇させた。この時点では特に異常がなかったため、2回目のテストでは速度を時速75マイルまで上昇させた。この時、ラジオ局のリポーターは、ヒューズに対して飛ぶつもりかどうかを質問したが、ヒューズは否定している。2回目のテストが終了した段階で、報道関係者が速報を送るために降機を申し出たため、機内に残った報道関係者はラジオ局のリポーターと録音技師だけとなった。 3回目のテストで、ヒューズは副操縦士席にフラップを15度に設定するように伝え、再度加速を開始した。時速75マイルに達した頃、機体は浮き上がり、完全に離水した(この時のラジオ放送の録音が、2010年6月現在もWeb上で公開されている)。そこから高度25メートルで1マイルほど、1分にも満たない時間ではあったが、ハーキュリーズは飛行を続け、やがて滑らかに着水した。この時の最高速度は時速100マイルであった。これは地面効果の域を超えない高度であり、これより高く上昇できるだけの出力を持っていなかったと見なす者もいる。 当初飛ぶつもりはないと言っていたヒューズが、なぜ実際に飛行させたのかは不明であるが、テスト終了後のラジオリポーターの質問には「人を驚かすのが好きだから」と答えている。 しかし、このテストでは既に機体に問題点が発生していた。飛行後の点検で尾翼に損傷が発見されたほか、主翼や水平尾翼では接着剤の剥がれが発生した。また、胴体からは滑水中にキシリ音がしていたなど、機体強度自体に問題があった。このため、1948年5月に、胴体と主翼をアルミニウム合金の波板で補強することがヒューズ社から発表された。また、操縦システムについても一部改修が行なわれた。 改修後、1949年初めに飛行テストを行なう予定であったが、テストの準備が整った段階で、ヒューズはテスト飛行の延期を決めた。その後もテスト飛行の計画が出たがまた延期され、ハーキュリーズに携わる人員も減らされ、その後、ハーキュリーズは二度と飛行することはなかった。この理由について、ヒューズが機体の強度に不安を抱いていたためと推測されている。
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