最初に発表された学術論文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 19:18 UTC 版)
「エットーレ・マヨラナ」の記事における「最初に発表された学術論文」の解説
1928年に発表された最初の論文は、ローマの物理学研究所の若手教授Giovanni Gentileの学部生のときに教授との共著で書いたものである。この研究は原子構造のフェルミの統計モデルの原子分光法に対する初期の定量的適用であった(ルウェリン・トーマス(英語版)により同時期に記述されたため、現在はトーマス=フェルミ模型として知られている)。 この論文において、マヨラナとGentileはガドリニウムとウランの実験的に観測されたコア電子エネルギー、および光学スペクトルで観測されたセシウム線の微細構造分裂について十分な説明を与えるこのモデルの状況内で第一原理計算を行った。1931年、マヨラナは原子スペクトルにおける自動イオン化現象(autoionization)に関する最初の論文を発表し、これを"spontaneous ionization"と呼んだ。同年、プリンストン大学のAllen Shenstoneにより独立に発表された論文においてはこの現象を"auto-ionization"(最初はピエール・オージェにより使われた名称)と呼んだ。この名前はそれ以降慣習的なものになり、ハイフンは付けなくなった。 1929年、ローマ・ラ・サピエンツァ大学で物理学のLaureaを取得した。 1932年、時間により変化する磁場中で整列する原子の挙動に関する原子分光法の分野における論文を発表した。I・I・ラービらによっても研究されていたこの問題は重要な原子物理学のサブブランチ、無線周波数分光法のサブブランチにつながった。同年、任意の固有運動量を持つ粒子の相対論的理論に関する論文を発表した。この中でローレンツ群の無限次元表現を開発・適用し、素粒子の質量スペクトルの理論的基礎を与えた。イタリア語で書かれたマヨラナの論文の大部分と同じように、この論文は数十年にわたり相対的な難解さにより人々を苦しめた。 1932年にイレーヌ・ジョリオ=キュリーとフレデリック・ジョリオにより行われた実験により、彼らが示唆した未知の粒子の存在がガンマ線であることが示された。マヨラナは中性電荷を持ち陽子とほぼ同じ質量を持つ新たな粒子(中性子)が必要であるとこの実験を正しく解釈した最初の人物である。フェルミはマヨラナに論文を書くよう勧めたが、マヨラナは気に留めなかった。そののち同じ年にジェームズ・チャドウィックが実験により中性子の存在を証明し、これによりノーベル賞を受賞した。 マヨラナは自身の発見に対する名声を求めないことで知られており、自身の研究を凡庸なものと考えていた。生涯に著した論文は9本のみである。
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