暗殺犯の動向とは? わかりやすく解説

暗殺犯の動向

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 00:45 UTC 版)

紀尾井坂の変」の記事における「暗殺犯の動向」の解説

実行犯石川県士族島田一郎長連豪杉本乙菊脇田巧一杉村文一および島根県士族浅井寿篤の6名から成る脇田暗殺にあたり罪が家におよぶのを恐れて士族辞めて平民になった)。その中でも特に中心的存在であるのが島田一郎である。島田加賀藩足軽として第一次長州征伐戊辰戦争参加しており、明治維新後も軍人としての経歴歩んでいたが、征韓論共鳴しており、明治六年政変西郷隆盛下野したことに憤激して以後国事奔走することになる。 杉村寛正杉村文一の兄)らも征韓論にあたり従軍願い出している。さらに台湾出兵にあたって杉村・長らは再び従軍願い出しており、台湾出兵中止の噂に対す反対建白書佐賀の乱の処理を批判する建白書には杉村(寛)・島田・後に斬奸状起草する陸義猶(陸九皐)が名を連ねている。しかし、これらの建白書期待した効果生まず島田らは実力行使路線を採ることになる。1874年明治7年)に島田と長は東京会い意気投合している。 長は1874年明治7年6月台湾出兵について西郷桐野利秋見解聞き杉村(寛)、陸と鹿児島入りしている。半年ほど鹿児島滞在し私学校留学している。1876年明治9年)にも鹿児島入りして桐野らと旧交を温めている。 長が帰県した10月には神風連の乱秋月の乱萩の乱士族反乱が相次ぎ島田金沢挙兵計画奔走する失敗。さらに翌1877年明治10年)の西南戦争では、島田と長が協力して挙兵計画奔走したが、周囲説得苦慮している間に、4月政府軍熊本城入城したとの情報得て勝敗決した計画中止したこの後島田らは高官暗殺方針変更する杉本脇田杉村らもこの時期島田計画加わっている。脇田10月、長は11月杉村12月島田杉本翌年4月上京している。唯一の島根県人である浅井西南戦争当時警視庁巡査であり警視隊属して従軍し1877年明治10年8月東京凱旋していたが、禁令犯して1878年明治11年2月免職となり、3月島田らの暗殺計画知って計画加わった。 彼らの暗殺計画複数ルート経て当時警察トップである大警視川路利良の耳にも入っていたが川路は「石川県人に何ができるか」と相手にしなかった。また高島鞆之助同様のことを話しているが、その証拠として「(事件直後に)川路現場飛んで来て手帳出して人名指差し、この6人の仕業違いない、と手帳叩いて涙をこぼしていた」と証言している。なお、川路大久保葬儀翌日大久保参議事変ニ付進退伺」を出し却下されている。

※この「暗殺犯の動向」の解説は、「紀尾井坂の変」の解説の一部です。
「暗殺犯の動向」を含む「紀尾井坂の変」の記事については、「紀尾井坂の変」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「暗殺犯の動向」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「暗殺犯の動向」の関連用語

暗殺犯の動向のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



暗殺犯の動向のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの紀尾井坂の変 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS