暗殺未遂事件と社会主義者鎮圧法
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「ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)」の記事における「暗殺未遂事件と社会主義者鎮圧法」の解説
1878年に2度ヴィルヘルム1世の暗殺未遂事件が発生し、ビスマルクによって社会主義者鎮圧法制定に利用された。 最初の暗殺未遂事件は1878年5月11日に発生した。ヴィルヘルム1世が娘のルイーゼ(バーデン大公妃)とともにオープンカーでウンター・デン・リンデン通りを通過中に21歳のブリキ職人マックス・ヘーデル(de)が2発発砲したが、誰にも当たらなかった。そもそも本当に皇帝を狙ったのかさえ不明で少なくともヴィルヘルム1世やルイーゼはそういう印象は受けなかったという。このヘーデルはかつてドイツ社会主義労働者党の党員だった。ビスマルクはこの犯人を社会主義労働者党に結び付けて、社会主義者弾圧に利用することとし、事件直後に社会主義者鎮圧法案を帝国議会に提案したが、議会多数派の国民自由党が例外法に反対するのを原則としていたため、5月21日に法案は否決された。 二度目の暗殺未遂事件は6月2日に発生した。ヴィルヘルム1世がウンター・デン・リンデン通りを馬車で散策していると統計事務所で働くカール・エドゥアルト・ノビリング博士(de)が鹿狩り用の散弾銃を皇帝に向けて発射し、命中させた。皇帝の出血は激しく、すぐに宮殿へと運ばれた。その後皇帝は数日間危篤状態になっていたが、なんとか蘇生して5か月の入院生活を送った。犯人のノビリングは逮捕される直前に自分の頭に銃を撃ち込んだ。即死はしなかったが、取り調べ不可能な状態になり、9月にはこの傷がもとで獄中死した。特定の政治思想に熱を入れていた様子もなく、売名欲の模倣犯ではないかと言われた。 ビスマルクはこの二度目の皇帝暗殺未遂事件の報告を受けると「それなら帝国議会は解散だ」と宣言し、その後になって皇帝の容体を気にしたという。皇太子フリードリヒは訪英中だったが、事件を聞いて急遽帰国した。ビスマルクは議会の解散に反対するフリードリヒを摂政に就任させないために1857年の時のように「国王代理」に任ずる旨の勅書を出させた。フリードリヒには不満があったが、結局「国王代理」を引き受けている。 御用新聞が二人の暗殺犯を社会主義運動に結び付けて、社会主義への恐怖を煽った結果、解散選挙は保守政党が勝利した。選挙後、保守政党と「帝国の敵」のレッテル貼りを恐れた国民自由党の賛成で社会主義者鎮圧法が可決されるに至った。
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