暗殺未遂とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 06:25 UTC 版)
「ルディ・ドゥチュケ」の記事における「暗殺未遂とその後」の解説
1968年4月11日、学生運動の重要人物となっていたドゥチュケは、学生運動を敵視していた青年ヨーゼフ・バッハマン(Josef Bachmann, 1945年10月12日 - 1970年2月24日)に街角で呼び止められ、頭に3発の銃弾を浴びた。ドゥチュケはこの事件で一命を取り留めたが脳や言語機能に重い障害が残り、再び話せるようになるまで長い時間がかかった。バッハマンは、西ドイツのメディア王アクセル・シュプリンガーが新聞各紙を通じて起こした反学生運動キャンペーンに強く刺激されており、暗殺によりドゥチュケを除かねばならないと考えていた。この事件後、学生によるシュプリンガー系の新聞社襲撃やデモなどが続発し西ドイツ各地で市街戦同然の事態になった 。後にドゥチュケは獄中のバッハマンと書簡を往復したが、バッハマンは1970年に刑務所で自殺している。 ドゥチュケと妻らはリハビリテーションのためイギリスへ渡り、回復の望みを託した。イギリス滞在中の1969年にドゥチュケはケンブリッジ大学で学位をおさめているが、1971年、エドワード・ヒース政権はドゥチュケとその一家を「破壊活動」に従事する「望ましくない外国人」として国外追放した。ドゥチュケはデンマークの哲学者ヨハネス・スレーク(Johannes Sløk)の誘いでオーフス大学(Aarhus Universitet)に誘われ、一家でオーフスへ移り、教職を得ることでデンマークに居住する権利を得た。 ドゥチュケは1970年代半ば、西ドイツで起こった原子力発電所建設への抗議行動に関与した後、再び西ドイツの政治の現場へ身を投じた。彼はかつての学生運動家らとともに環境保護運動や反核運動に参加し、緑の党へとつながる政治運動に左派をまきこんでゆく。また、東ドイツのヴォルフ・ビーアマン(Wolf Biermann)、ポーランドのアダム・ミフニク(Adam Michnik)、チェコスロヴァキアのミラン・ホラチェク(Milan Horáček)ら東側の反体制派とも協力し民主化運動を支援した。 しかし暗殺未遂以後残った脳の後遺症により、彼は生涯苦しむことになった。1979年12月24日、ドゥチュケはオーフスの自宅で入浴中に発作を起こし死去した。ドゥチュケはベルリンの聖アンネン教会付属墓地に埋葬された。
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